満鉄時代とは? わかりやすく解説

満鉄時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 09:18 UTC 版)

中村是公」の記事における「満鉄時代」の解説

1904年明治37年)、日露戦争始まり1905年明治38年)、ポーツマス条約結ばれるその結果日本は現在中国の遼東半島租借権と、長春以南東清鉄道つまり南満州鉄道利権ロシアから引き継ぐことになった台湾統治実績挙げていた後藤は、半官半民国策会社南満州鉄道株式会社満鉄)の総裁となり、40そこそこの是公を副総裁抜擢した後藤は「午前八時の男でやろう」と是公に人事任せ若い人材を登用させた。三井物産門司支店長から抜擢され犬塚信太郎至ってはわずか32であったが、人物識見買われ理事となった。是公は後藤意向一時関東都督府民政長官となり、同時に満鉄副総裁事務取り扱った1908年後藤2年逓信大臣抜擢され満鉄を去ることになると、彼は若すぎるとの批判押し切って是公を第2代満鉄総裁据えた満鉄総裁としては一番長5年務め上げ後藤プランに従って満鉄基礎作った後藤が「大風呂敷」といわれたのに対し、その仕事ぶりは「ジミ主義」(東京朝日新聞)といわれた。 1909年ハルビン事件伊藤博文暗殺され現場居合わせ中村にも銃弾が2発かすったが、ほぼ無傷だった1913年大正2年12月第1次山本内閣内務大臣だった立憲政友会原敬横車で、心ならずも職を追われることになった満鉄対す政党介入のはじめであった副総裁国沢新兵衛ら、ほとんどの役員が是公に殉じて辞めた菊池寛は「満鉄外史」で次のように是公の業績総括している。 極めて短期間後藤一代といふものは、ただ例の景気いいかけ声で、事業厖大アウトラインだけを描いたに過ぎなかった。すべての仕事ぱたぱた着手したのは中村二代目からである。 ――本社造営埠頭制度港湾土木倉庫施設大連市街その他付属地の経営ホテル事業病院設備学校創立満鉄本線改修安奉鉄道敷設上海営口安東の各埠頭造営海運事業創始電鉄瓦斯施設中央各地試験開始公所地方事務所設置各種工場公園図書館満蒙産業調査機関、その他いろいろの施設――以上悉く是公の敏腕によつて作り出されたものであった。 また是公は夏目漱石大学予備門以来親友としても知られるが、満鉄総裁時代夏目満州招待し夏目はその経験を「満韓ところどころ」に発表した

※この「満鉄時代」の解説は、「中村是公」の解説の一部です。
「満鉄時代」を含む「中村是公」の記事については、「中村是公」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「満鉄時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「満鉄時代」の関連用語

満鉄時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



満鉄時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの中村是公 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS