満鉄時代
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1904年(明治37年)、日露戦争が始まり、1905年(明治38年)、ポーツマス条約が結ばれる。その結果、日本は現在中国の遼東半島の租借権と、長春以南の東清鉄道つまり南満州鉄道の利権をロシアから引き継ぐことになった。 台湾統治で実績を挙げていた後藤は、半官半民の国策会社・南満州鉄道株式会社(満鉄)の総裁となり、40そこそこの是公を副総裁に抜擢した。後藤は「午前八時の男でやろう」と是公に人事を任せ、若い人材を登用させた。三井物産の門司支店長から抜擢された犬塚信太郎に至ってはわずか32歳であったが、人物・識見を買われて理事となった。是公は後藤の意向で一時関東都督府民政長官となり、同時に満鉄副総裁の事務も取り扱った。 1908年、後藤が2年で逓信大臣に抜擢されて満鉄を去ることになると、彼は若すぎるとの批判を押し切って是公を第2代満鉄総裁に据えた。満鉄総裁としては一番長く5年間務め上げ、後藤のプランに従って満鉄の基礎を作った。後藤が「大風呂敷」といわれたのに対し、その仕事ぶりは「ジミ主義」(東京朝日新聞)といわれた。 1909年、ハルビン事件で伊藤博文が暗殺された現場に居合わせ、中村にも銃弾が2発かすったが、ほぼ無傷だった。 1913年(大正2年)12月、第1次山本内閣の内務大臣だった立憲政友会の原敬の横車で、心ならずも職を追われることになった。満鉄に対する政党の介入のはじめであった。副総裁の国沢新兵衛ら、ほとんどの役員が是公に殉じて辞めた。 菊池寛は「満鉄外史」で次のように是公の業績を総括している。 極めて短期間の後藤一代といふものは、ただ例の、景気のいいかけ声で、事業の厖大なアウトラインだけを描いたに過ぎなかった。すべての仕事をぱたぱたと着手したのは中村二代目からである。 ――本社の造営、埠頭制度、港湾土木、倉庫施設、大連市街その他付属地の経営、ホテル事業、病院設備、学校創立、満鉄本線改修、安奉鉄道敷設、上海・営口・安東の各埠頭造営、海運事業創始、電鉄・瓦斯の施設、中央と各地の試験所開始、公所・地方事務所の設置、各種工場、公園、図書館、満蒙産業調査機関、その他いろいろの施設――以上悉く是公の敏腕によつて作り出されたものであった。 また是公は夏目漱石の大学予備門以来の親友としても知られるが、満鉄総裁時代に夏目を満州に招待し、夏目はその経験を「満韓ところどころ」に発表した。
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