満鉄改組
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 03:46 UTC 版)
「満洲国の経済」および「満洲重工業開発」も参照 満洲国成立当時の満鉄は、資本金4億4000万円、鉄道・港湾・炭鉱の三大事業に加えて附属地4万9000ヘクタールをかかえており、傍系会社は1936年までに77社に達していた。鉱山開発や森林開発は満洲国成立以前から進めており、なかでもは鞍山製鉄所を中心とする鉄鋼業と撫順炭坑を中心とする石炭については特に力を入れてきた。『満鉄コンツェルン読本』によれば、傍系会社の資本金は7億円を越え、満鉄の持株はその49.3パーセントに達した。 満洲国成立後は、満洲の経営の中心は満鉄から関東軍に移り、満洲国政府にも日本から高級官僚が送られてきて力を持つようになった。しかし、関東軍にとって満鉄だけが支配できない組織であった。満鉄を支配できなければ、満鉄が経営している工業部門を統制できないと考える人びとは、満洲国の経済における満鉄の独占的地位を問題とした。そこで、満鉄が支配している各種会社を満鉄から切り離して特殊会社とし、満鉄を鉄道と調査部門に特化させる方向が示された。1935年(昭和10年)には日満間で鉄道売却の協定が成立し、形式上は満洲国の所有に帰することとなった。こうしたなか、1935年より満鉄総裁となった松岡洋右は大調査部構想を掲げ、調査部門の強化を図った。満洲国の成立後は国策として満洲移民が奨励され「開拓地」が広がったことや対ソ防衛上の見地から北部や東部に向かう路線の建設に力を注がれた。北黒線や虎林線はその代表例である。満洲・朝鮮・日本の連絡強化も推進された。 一方、満洲国における本格的な重工業開発は、1936年に始動した産業開発5か年計画に沿って行われた。それは25億円を投じて鉄鋼・石炭・兵器・自動車・飛行機などの重工業を重点的に育成することを目標としていた。この5か年計画を指導した中心人物が、戦後内閣総理大臣となった岸信介であった。岸は商工省の高級官僚であったが、日本政府が直接資本を投入することにはさまざまな制約があった。そこで、当時新興財閥と呼ばれた鮎川義介の日本産業株式会社(日産コンツェルン)を満洲に引き入れる方策がとられた。日産は、傘下に日産自動車、日立製作所、日本鉱業、日本化学工業など130社、従業員15万人を擁する一大コンツェルンであったが、それがそっくり満洲へと移転したのである。すでにシナ事変(日中戦争)の始まっていた1937年12月のことであり、社名も満洲重工業開発(通称、「満業」)に改めた。満業は2億2500万円を出資し、1938年3月、満鉄は鞍山製鉄所をはじめとする重工業部門を満業に提供した。こうして、満業には昭和製鋼所や満洲炭坑など、重工業のほとんどが集中した。また、満蒙開拓団の入植地確保のため、関東軍の指示で用地買収を行なったのは満業の子会社の東亜勧業であった。
※この「満鉄改組」の解説は、「南満洲鉄道」の解説の一部です。
「満鉄改組」を含む「南満洲鉄道」の記事については、「南満洲鉄道」の概要を参照ください。
満鉄改組
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 22:17 UTC 版)
「満州国の経済」および「満州重工業開発」も参照 満洲国成立当時の満鉄は、資本金4億4000万円、鉄道・港湾・炭鉱の三大事業に加えて附属地4万9000ヘクタールをかかえており、傍系会社は1936年までに77社に達していた。鉱山開発や森林開発は満洲国成立以前から進めており、なかでもは鞍山製鉄所を中心とする鉄鋼業と撫順炭坑を中心とする石炭については特に力を入れてきた。『満鉄コンツェルン読本』によれば、傍系会社の資本金は7億円を越え、満鉄の持株はその49.3パーセントに達した。 満洲国成立後は、満洲の経営の中心は満鉄から関東軍に移り、満洲国政府にも日本から高級官僚が送られてきて力を持つようになった。しかし、関東軍にとって満鉄だけが支配できない組織であった。満鉄を支配できなければ、満鉄が経営している工業部門を統制できないと考える人びとは、満州国の経済における満鉄の独占的地位を問題とした。そこで、満鉄が支配している各種会社を満鉄から切り離して特殊会社とし、満鉄を鉄道と調査部門に特化させる方向が示された。1935年(昭和10年)には日満間で鉄道売却の協定が成立し、形式上は満洲国の所有に帰することとなった。こうしたなか、1935年より満鉄総裁となった松岡洋右は大調査部構想を掲げ、調査部門の強化を図った。満洲国の成立後は国策として満洲移民が奨励され「開拓地」が広がったことや対ソ防衛上の見地から北部や東部に向かう路線の建設に力を注がれた。北黒線や虎林線はその代表例である。満洲・朝鮮・日本の連絡強化も推進された。 一方、満洲国における本格的な重工業開発は、1936年に始動した産業開発5か年計画に沿って行われた。それは25億円を投じて鉄鋼・石炭・兵器・自動車・飛行機などの重工業を重点的に育成することを目標としていた。この5か年計画を指導した中心人物が、戦後内閣総理大臣となった岸信介であった。岸は商工省の高級官僚であったが、日本政府が直接資本を投入することにはさまざまな制約があった。そこで、当時新興財閥と呼ばれた鮎川義介の日本産業株式会社(日産コンツェルン)を満洲に引き入れる方策がとられた。日産は、傘下に日産自動車、日立製作所、日本鉱業、日本化学工業など130社、従業員15万人を擁する一大コンツェルンであったが、それがそっくり満洲へと移転したのである。すでにシナ事変(日中戦争)の始まっていた1937年12月のことであり、社名も満州重工業開発(通称、「満業」)に改めた。満業は2億2500万円を出資し、1938年3月、満鉄は鞍山製鉄所をはじめとする重工業部門を満業に提供した。こうして、満業には昭和製鋼所や満洲炭坑など、重工業のほとんどが集中した。また、満蒙開拓団の入植地確保のため、関東軍の指示で用地買収を行なったのは満業の子会社の東亜勧業であった。
※この「満鉄改組」の解説は、「南満州鉄道」の解説の一部です。
「満鉄改組」を含む「南満州鉄道」の記事については、「南満州鉄道」の概要を参照ください。
- 満鉄改組のページへのリンク