「大調査部」の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 04:03 UTC 版)
1937年の満鉄改組にともない社内での調査業務の比重が大きくなると、松岡洋右総裁の構想に基づき1939年に東亜経済調査局・北支事務所・上海事務所調査課・中央試験所・満蒙資源館・大連図書館などが調査部に統合され、いわゆる「大調査部」が発足した。この体制のもとで「支那抗戦力調査」を初めとする一連の総合調査が実施されていった。大調査部発足の前後から調査部では大幅な人員増強が図られ、「思想的前歴者」すなわち左翼運動からの転向者が即戦力として大量に入社することとなった。石堂清倫はその代表例である。多くの場合調査部内の資料課に配属された彼らは、外来派と称されるグループを形成し、綜合課を拠点とした先述の経調派との間で、日中戦争の認識や満州社会の変革の展望をめぐって激しい論争を展開した。やや時期はさかのぼるが、『満州経済年報』に大上末広が講座派の方法によって満州社会を分析した論文を執筆し、それを鈴木小兵衛が批判したことをきっかけに始まった「満州経済論争」の背景には、こうした対立関係があったという見方もある。以上のような調査部でのマルクス主義的方法論の浸透を「満鉄マルクス主義」と呼ぶことがある。
※この「「大調査部」の成立」の解説は、「満鉄調査部」の解説の一部です。
「「大調査部」の成立」を含む「満鉄調査部」の記事については、「満鉄調査部」の概要を参照ください。
- 「大調査部」の成立のページへのリンク