「大衆団交」の開催と挫折、運動の終息
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「日大紛争」の記事における「「大衆団交」の開催と挫折、運動の終息」の解説
その後も日大全共闘による大衆団交の要求、大学当局の妥協案提示、日大全共闘の拒絶が続いたが、9月29日に理事学部長会議はついに翌9月30日に「全学集会」を行うことを決定した。 9月30日当日、大学当局主催の形式が取られた「全学集会」は、床にヒビが入るほどの大入りの両国講堂で開催された。当初2時間の学生らはヘルメットやゲバ棒の持ち込みを禁じられたが、大学当局が2時間までとしていた集会は12時間にも及び、全共闘は全理事から本集会が大衆団交であることを認めさせたほか、過去の大衆団交実施の違約・仮処分申請・機動隊導入に対する自己批判や集会・出版の許可制撤廃、本部体育会の解散、学生会館の自主管理、全理事の総退陣、闘争での処分者を出さないことなどを記した確約書に理事たちを署名させたうえ10月3日に大衆団交を再度行うことを約束させ、ほとんどの要求を通した。ただし、理事の総退陣は理事会でこの後決定するとされた。古田会頭は途中疲労により倒れ、秋田は団交終了後放心状態であったという。 しかし翌10月1日に、佐藤栄作首相が大学問題閣僚懇談会で「日大の大衆団交は常識を逸脱している」 「法秩序の破壊すら進んでいる。いまや、この処理は政治問題として取り上げる段階に来た」と発言。更に、先述の警察官死亡により、日大全共闘に対する風当たりは強くなっていた。10月2日に開かれた理事会で、古田会頭ら日大首脳部は約束させられていた10月3日の大衆団交を撤回した。10月7日に評議会から全員一致での理事総退陣が勧告されたものの、10月9日の理事会で出された退陣決議は一部理事の反対により全員一致とならず、新理事が選出されるまで現理事がとどまるという付帯条項がつけられた。 秋田ら日大全共闘は10月3日に抗議集会を開くが2000人弱しか集まらず、学生たちの失望感と挫折感は明らかであった。10月5日には秋田ら全共闘系学生に公務執行妨害と都公安条例違反で逮捕状が出され、潜伏を余儀なくされた。10月21日の国際反戦デーの頃にはセクトの侵食が進み、日大は反権力の一拠点となっていた。 この頃には一般学生らは進級・卒業、そして就職に対する危機感を持ち始めており、10月15日に企業の人事担当者から紛争が長期化する日大からは採用しない旨を言い渡されて就職内定者の間で動揺が広がった。11月10日には父兄会が開催され、紛争の元凶として批判された末に発言を認められた全共闘派の涙ながらの訴えに、事態を解決できない理事の総退陣要求には同意したものの、子弟の就職を心配する父兄はあくまで授業の早期再開を求めた。 11月8日には芸術学部のバリケードへの攻撃に参加した空手部主将が逆に全共闘に拘束され、両手を潰して全身を滅多打ちにするなどの凄惨なリンチが加えられた。11月18日には事件の現場検証として機動隊が導入され、芸術学部闘争委員会は大量逮捕により事実上壊滅した。 日大全共闘は11月30日に大学当局に再び大衆団交を要求したが、拒絶されて行き詰まり、学外勢力との連帯に活路を見出そうとした。11月22日には「東大=日大闘争勝利全国学生総決起大会」が開かれ、両大全共闘による共同文書が出され、田村正敏書記長は「東大は日本帝国主義の高級官僚の養成、日大はサラリーマンの養成機関であった。われわれはこのような現体制を打破せねばならない」と演説した。この流れはセクトや活動家・左翼評論家から歓迎されたが、日大全共闘を「民主化闘争」として支持してきた人々の共感を失うこととなり、学内でも離反の動きが加速した。そのような中で、東大での民青との内ゲバに参加するなど、日大全共闘は更に急進化していく。 全共闘系学生が次々と逮捕されていく中、11月24日から経済学部で他県の日大施設を利用して4年生(短大2年生)に卒業単位を取らせるために集中講義を行う「疎開授業」が開始された。法学部や商学部もこれに続き、全共闘はボイコットを呼びかけたが、卒業延期を恐れた一般学生らは授業再開に応じた。 孤立した全共闘系学生たちは去っていった一般学生を軽蔑したが、機動隊にバリケード封鎖を解除された校舎を再奪還できる力はなく、1969年2月までに構内の拠点を失い、警察や体育会系学生の警備のもとで同月に実施された入試にも手出しができなかった。 3月12日に潜行中であった秋田が逮捕され、警官死亡に関して逮捕状を出された者は全員が逮捕されたが、裁判では「現場にいたとの証明がない」として全員の無罪が確定し、未解決事件となっている。 日大全共闘はその後も少数の学生で活動を続けたが、1970年代初頭には自然消滅した。
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