「大聖堂」での生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 18:30 UTC 版)
「パブロ・エスコバル」の記事における「「大聖堂」での生活」の解説
1989年8月18日、ルイス・カルロス・ガランがソアチャ(Soacha)の自治体で開かれた選挙行事に出席し、壇上に上がって演説を始めようとした矢先に銃撃を受けて殺された。ガランの暗殺計画には、エスコバルだけでなく、メデジン・カルテルの幹部の1人、ホセ・ゴンサロ・ロドリゲス・ガチャ(José Gonzalo Rodríguez Gacha)、コロンビア自由党の党員で、1974年に法務大臣を務めたアルベルト・サントフィミオ(Alberto Santofimio)も関わっていた。1984年4月30日、法務大臣で麻薬密輸を取り締まっていたロドリーゴ・ララ・ボニーヤ(Rodrigo Lara Bonilla)が、乗っていた車の中で殺された。彼の暗殺もエスコバルの命令によるものであった。ルイス・カルロス・ガランの暗殺において、アルベルト・サントフィミオがいかなる役割を果たしたかについての調査が実施された。サントフィミオは2005年に逮捕され、2007年10月に有罪を宣告され、懲役24年の刑を言い渡された。 1990年8月、コロンビア自由党のセサル・ガビリア(César Gaviria)が、コロンビア共和国の大統領に就任した。ガビリア政権は、エスコバル率いる麻薬カルテルの取り締まりに向けて動き出した。ガビリア政権はエスコバルと交渉し、刑期の短縮および収監中のエスコバルに優遇措置を実施するのと引き換えに、全ての犯罪活動を放棄・中止するよう説得しようとした。1991年、エスコバルは、当局と世論に圧力をかける目的で続けてきた一連の暴力的行為の終結を宣言し、コロンビア政府に投降した。エスコバルが投降する前に承認され、成立した1991年のコロンビア憲法では、コロンビア人のアメリカ合衆国への身柄引き渡しは禁止されていた。この法規は、エスコバルを始めとする麻薬密売組織が、憲法制定議会議員たちによる法案の可決に影響を及ぼした疑いがあるため、エスコバルの当局への投降は物議を醸した。 エスコバルは、サッカー競技場、巨大な人形屋敷、酒場、泡風呂、滝を備えた豪奢な私設刑務所「ラ・カテドラール」(La Catedral, 「大聖堂」)に収容された。収監中、エスコバルの犯罪行為の記事が報道機関を通じて明るみに出るようになると、コロンビア政府は1992年7月22日にエスコバルの身柄をより刑務所らしい施設に移送することを決定した。自身の影響力の大きさから、エスコバルはその移送計画を事前に察知して「ラ・カテドラール」から脱獄し、警察の追跡から逃れるための潜伏生活に移った。
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