「大虐殺」がなかったとする証言とは? わかりやすく解説

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「大虐殺」がなかったとする証言

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 16:40 UTC 版)

南京事件の証言」の記事における「「大虐殺」がなかったとする証言」の解説

(ほとんどが現場かかわってない士官であることに留意また、歴史家秦郁彦によれば彼の経験によるとして、将校概して口が固くクロ状況語ったり、日記メモ提供するのは、応召兵士大多数であるとする。) 陸軍 松井石根中支那方面軍司令官東京裁判で「(大虐殺は)公的な報告受けたことがなく、終戦後米軍放送初め知った」と証言し供述書では「巡視の際、約20人の中国兵戦死体を見たが、市内秩序おおむね回復した」と述べ、「南京入城後、非行が行われたと憲兵隊長から聞き各部隊調査処罰をさせた」と証言した当時松井部下である武藤章は、南京入城時に松井とともに1020程度事件があったと聞いたこと、軍法会議10件から20程度事件かけられていた事、1件で10人かそれを超える人数裁かれいたものもあった事、彼が確かに存在したことを知る軍法会議法廷一つだけだが他にも法廷複数開かれていただろうと信じている事等を裁判前尋問供述している。 上海派遣軍参謀大西一大尉。1937年12月13日午後から南京入城し南京陥落一年間特務機関長として滞在した当時上海派遣軍の中で虐殺について「話題になったことはない」、強姦は何件かあったが、暴行掠奪見たとがない証言。ただし、偕行社高橋志郎は、大西論文について単にシロシロだというだけとして、反論ならないものと考えている。 上海派遣軍嘱託軍司令官付・岡田尚は、強姦数えるほどで、「(一般市民を)虐殺したということはありえません」、城内での火事についても記憶がない、しかし捕虜敗残兵について「やったことはある」が、当時の状況で「果たしてそれが虐殺といえるか」疑問であると証言したうえで、自らを中国びいきであるとし、満州国建設にも反対であったし、日支事変日本やりすぎたこともあるが、南京防衛中国軍降伏勧告受け入れなかったのは中国側で、その責任者唐生智逃げたことを批判し降伏拒否なければ捕虜殺害もなかったと述べている。なお岡田1937年12月12日蘇州から湯水鎮へ向かう途中で女性兵士を含む中国兵捕虜千人から二千人がクリーク土手に座らされて処刑されているのを目撃している。 第10軍参謀谷田勇は、1937年12月14日午後3時下関埠頭死体1000人〜3000人があったが、これは第16師団追い詰めたもので、「これが後日虐殺称されているものではないか」と述べ、さらに12月19日までの南京滞在の間に「死体数は数千ないし一万程度で、まして集団虐殺の跡などは発見できませんでした。したがって中国側終戦後極東国際軍事裁判主張した数十誇大意図的な誇張であると確信いたしております」と証言した第10軍参謀金子倫介は、南京事件について聞いたことはありませんでした戦後東京裁判聞いてびっくりしました。何か隠しているとか、言い渋っているとかいうことはなく、本当に南京では何も見てません。」と証言した第10軍参謀吉永朴(すなお)。「南京大虐殺白髪三千丈式に、後で中国人言っていること」と証言した第10軍参謀寺田雅雄は、第10軍軍紀それほど悪くはなかったし、当時南京事件聞いたことはないと証言した第10軍参謀・仙頭俊三は「12月12日浦口(揚子江はさんで下関対岸)に進出した時、浦口には味方十五榴(九六式十五糎榴弾砲)が盛んに落下していました揚子江両岸浮遊した敵の死体目撃したところ数百でしょうか中流にはあまり死体認めませんでした下関岸壁鮮血に染っていたのを目撃し、かつ死体手足しばられていたようでした虐殺ということは当時は全く知りませんでした軍紀に関して国崎支隊に関する限り悪かったことはありません」と証言した侍従武官後藤光蔵南京入城した時、「南京は人一人いない街となっており、小生はその一軒泊まったのですが、何事もありませんでした」と証言した上海派遣軍特務部員経理将校岡田酉次中国軍には女性兵士がいた、抵抗する敗残兵もいて、便衣兵もいて、「これらがやられるのも見ました。これらの屍があとで虐殺と言われたのではないでしょうか」と証言している。 参謀本部庶務課長・諫山春樹は、参謀本部庶務課全ての報告に目を通すが、日本兵軍紀悪かった当時話題になったことはなく、また「虐殺事件話題になったことも、箝口令をしいたことも絶対にありません」と証言した陸軍省軍務局軍事課編成班・中支那派遣軍参謀昭和13年大槻章は、虐殺事件について「そういった形跡は全然ありませんでした何もない軍司令部参謀いろんな話をしたが、話題になったことも、聞いたともない虐殺があったというのは嘘」であり、「虐殺なんていうのは命令なければできないこと」で、あったとすれば当時話題になったはずだと証言している。 野砲兵第22連隊長・(終戦時第21師団長)三国直福は、当時日本兵軍紀乱れ事件について何も聞かなかったと証言し、さらに自分広東での戦犯裁判被告になった経験について、裁判はめちゃくちゃで、罪状では三国汪兆銘政権作ったとか(三国南京特務機関長だったが深くかかわっていないと述べている)、中国市民暴行ふるったなどで、証拠求めると、中国軍市民被害出せ命令して出したもので、場所も日付師団のいた場所とほとんど合致しないものであった証言している 上海憲兵隊岡村適三は、当時事件について軍紀についても特別聞いたことはない、日本軍威張っているということは聞いた証言した 第16師団歩兵第20連隊(福知山連隊)大隊長王琢は「私の大隊南京城の東正門中山門攻撃した激戦したが、13日午前3時10分、砲撃城壁崩し、その勢いではい上がり軍旗立てました。私はその時城外の丘の上におり、城内には師団長と共に十五日に入場した宿営地について陸軍省先輩会いその日午後二人で戦場視察に出かけた。山陵紫金山など見て歩いた翌年1月19日命令転進したが、それまで南京その周辺警備に当たつていた。したがって南京大虐殺が行われたという時期あったかないか、私は確信をもってお話しできるただ一人人間だと思ってます。例え火事があったという人、なかったという人がいる。あったという場合には焼け跡を示すことが出来るが、なかった場合というのは、明かし立てにくい。それと同じで、南京虐殺があった、婦人が乱暴された、家が焼かれたと盛んに言われているが、それがほとんどウソであることを申し上げる」と証言している。 第6師団歩兵第23連隊中隊長吉川正司は、「突入翌日12月13日には城内掃蕩やっているが、城内敵兵は一兵も見ず一般住民もいない全くの死の街であった連隊それ以降主力西門東南方地区の市街地に、第1大隊をもって12月21日まで西門外に駐屯し警備あたったが、翌13年1月13日蕪湖へと転進するまで、虐殺事件など見たことも聞いたこともなかったと断言できる。」と証言第6師団歩兵第23連隊第2中隊長坂元昵。 第6師団歩兵第23連隊安楽秀雄第6師団歩兵第23連隊中山有良。 第6師団歩兵第13連隊伍長古沢第6師団歩兵第47連隊獣医曹長の城光宣は、昭和12年12月13日中華門から入城、「城内空っぽ」で兵隊住民もいなかった、「無抵抗民間人を殺すのが虐殺。だが、人がいない以上、虐殺があるはずがない」し、城内では遺体見ていないと証言。また中国戦線5年従軍したが、中国人集落駐留する場合は、日本軍住民分けるため集落中央に線を引き、住民側に立入禁止厳命され、憲兵もいたし、違反絶対にできなかった。軍紀それほど厳しかった証言している。さらに30万人虐殺したでっち上げであり、貶められるのは我慢ならないし、南京裁判死刑になった谷寿夫中将に対して何もしていないので哀れであると述べた第6師団13連隊 第3大隊 砲兵小隊永田尚武 第9師団 第18旅団司令部齋藤敏胤 第9師団歩兵第7連隊喜多留治は、12月14日からの掃討戦参加し安全区警備担当した喜多は、安全区民間人なりすました便衣兵掃討には厳重な命令があり、住民への配慮や、将校指揮に必ず従うことを命じられており、掃討は同師団金沢富山連隊担当し、他部隊安全区入らないよう「金沢」「富山」という合言葉を使うなど警備は厳重で、そうした警備すり抜け日本軍略奪強姦するなどということはありえないことです」と証言第9師団 歩兵第7連隊11中隊・納谷勝 第9師団歩兵第36連隊伍長近藤平太夫は陥落後は「露店が何軒か出ていて、日本兵相手商売をしていた。靴修理店、散髪屋などだった」「露店印鑑作り城内極めて平穏だった」「住民平和に商売をしている一方で毎日たくさんの人が虐殺されているというようなことは全く考えられません」と証言野中三郎 第16師団歩兵第20連隊伍長橋本光治は、昭和12年12月13日入城12月23日まで城内外の敗残兵掃討作戦参加橋下戦後当時部下の上等兵だった東史郎から著書郵便袋に中国人入れて殺害した著書書かれ名誉毀損提訴し勝訴した(最高裁確定)。橋下は「戦争中軍紀守られていた。そんな残虐行為ができるわけがないまた、婦女子に手をかけてはいけないと厳命されていたし夜間外出禁止され任務以外に自由な時間はありませんでした」と主張した第16師団輜重兵16連隊第6中隊稲垣清12月16日入城し住民の姿をみかけ、時計修理のため時計屋訪れた証言第16師団33連隊第2大隊第5中隊第1小隊長・市川治歩兵第65連隊両角業作部隊)の栗原利一12月17日幕府山事件での捕虜殺害について証言残しているが、「殺したなかに一般人一人もいない。当時日本軍戦果私たち13,500含めて7万といわれていたが、現在中国で言うような3040万という大虐殺などとても考えられない。」と述べた。但し、栗原様々な人から取材受けており、後の方の取材往々にして先行取材を難じ、当初から計画されていた殺害であった可能性をより強く否定する方向のものになっているが、寧ろ後の方の取材方に、その取材結果とする内容疑義出されている。 第36師団歩兵224連隊の内貴直次少尉陥落6年後の昭和18年夏に南京滞在したが「街は商店や人であふれ、平和な様子だった。もし、大虐殺があれば、住民恨みを買い、われわれは平穏に駐留できなかったはずだ」と証言陸軍士官学校58期和田泰一少尉は「当時の記録読めば事実別にあることは明らかなのに大虐殺説を許してきた私たち責任大きい」と述べた独立軽装甲第二中隊小隊長の畝元正己が、以下のように南京戦実態述べる。江南平野200マイル南京追撃戦日本軍は一地に長く駐留することはなかったし、掠奪暴行行っておらず、都市戦禍攻防戦によって生じたもので、日本軍のみの故意のものではないと述べている。日本軍追撃にあたって敗残兵深追いしなかったため、村落山中逃走した敗残兵が、便衣兵としてゲリラ化し後方部隊襲撃し日本軍悩ませたとするまた、日本軍補給が不十分であったため将兵鬼獣化した称されるが、上海南京200里を約一ヶ月(11/11〜12/13)で進撃したため、一日行程平均7里で補給作戦困難なものではなかったし、上陸後引き続いて追撃移った当初補給不足のため現地物資によったが、12月10日以後後方兵站追随していた、と証言するまた、上海派遣軍参謀大西一は、松井司令官よる蘇州文化住民保護命じられ日本軍入城禁じた主張する上海攻略戦において、第9師団司令部城内入らず、その翌日到着した軍司令部蘇州城外司令部置いた。但し、この蘇州上海隣接した都市であり、東京裁判備えた尋問松井大将が上海南市安全区寄付した事を自己弁護に使うほどで、この地域状況は相当異なっていたと考えられる海軍 第3艦隊第11戦隊の砲艦勢多艦長寺崎隆治は、「その時戦争ですから抵抗する中国兵射殺しましたし混乱してますから逃げまどっている住民反抗する市民多少はいたでしょう。それは戦争続きです。こういう情況のもとに起こった戦死体を戦後南京虐殺と言っている」と証言している。また南京裁判処刑され谷寿夫について「国際通で、国際法詳しい人ですから、それを考えて南京虐殺間違いだ」と証言している。 第三艦隊第11戦隊の砲艦比良艦長土井申二は、宝塔街の治安回復行い紅卍字会の陳漢から礼状受け取ったが、虐殺はなかった、礼状もそうだが中国人誇張して表現する証言した上海海軍武官府、第3艦隊司令部付の重村実は、入城式のため12月17日到着したが、目撃したのは中国人民家入って便器など手当たり次第掠奪している姿で、日本兵による残虐行為見ていないが、便衣兵殺害したとは聞いた、「この時、兵隊なのか市民なのか、それは中国人指摘させた」と聞いた証言した第二連合航空隊参謀源田実海軍12航空隊3等航空兵曹の原田要九五式艦上戦闘機光華門を攻撃したが、陥落後の城内露店が立ち、「南京誠に和やかに尽きる、という印象でした」「非常に平和な進駐」だったと記憶していると証言し、「何十万人もの大虐殺信用できない。もし、大虐殺があれば、中国人はわれわれに和やかに接しただろうか」と述べている。 文官 福田篤泰当時南京日本大使館南京安全区国際委員会委員長ジョン・ラーベとの交渉にもあたっていた外交官補。「2030虐殺はおろか単位虐殺絶対にない。(略)衆人環視の中である。そんなことなどしたら、それこそ大問題だ。絶対にウソである。宣伝謀略である」と述べたまた、残虐行為現場見ていないがあれだけ言われる以上残念ながら相当あったと思う、しかし私の体験からすれば本に書いてあるものはずいぶん誇張されいるようだ」と述べた。ただし、戦後長らく国会議員として南京虐殺があったという話を喜ばない政治家の多い自民党渡っていかねばならなかった人物であるため、立場言えないこともあったとも考えられる実際に発言主眼となる部分あまりに奇妙な内容であったりするため、聞いた人が真に受けないよう敢えてわざとそのような言い方をしたのではないかとさえ思え真実か疑う声もある。 企画院事務官陸軍省から出向岡田芳正は、南京事件について当時聞いたことはなく、戦後はじめて聞いた、「南京事件というのは、中国それまでやってきた宣伝戦戦後行ったまでのこと」と証言した外務省領事館補の岩井英一陥落同時に南京入りし、年明け南京総領事館勤務した領事館補の粕谷孝夫は、事件について直接聞いたことはなく、渉外部長広田豊大佐からも聞いていないと証言した西本願寺従軍僧大谷光照法主12月14日南京入りし、17日入城式に参列18日慰霊祭行ったが「虐殺見ておりませんし、噂も聞きませんでした。もうその時戦闘は全く終息していて一市内平静で一市民の盗もほとんど見かけず、虐殺起るような環境ではありませんでした日本軍城内城外適宜宿営し、のんびり休養とっていました」と証言報道大阪朝日新聞山本治は、「朝日新聞では話題になったこともありません」、また白川威海上海支局長からも聞いていないと証言東京朝日新聞橋本登美三郎当時上海支局次長)は、事件は全然聞いていない、もし事件発生していれば、記者の間で話題になるはずだと証言した陥落後から一ヶ月南京にいた東京日々新聞金沢喜雄カメラマンは、「私は南京をやたら歩いていますが、虐殺見たことがなければ兵隊から聞いたこともありません」、また新聞社内では一度話題になっていないと証言した大阪毎日新聞五島広作は第6師団谷寿夫師団長)に従軍し1938年1月10日まで南京にいたが、中国人虐殺命令聞いたことがなく、「東京裁判があってからの作り話ではないか、と証言したまた、事件あったらしいと噂を当時聞いたので朝日読売同盟各社問い合わせたが、どの社も知らないので、中国宣伝工作だろうと考えたとも証言した報知新聞二村次郎カメラマンは、揚子江での死体について聞いたことがあるが「虐殺されたものではなく数が多いので話題になったのだと思います」と証言した報知新聞田口利介は、南京城内で見た死体2,3体で、下関にも何もなかったと証言読売新聞樋口哲雄カメラマンは、「(虐殺の)形跡見たことがありません。あったとよくいわれていますが、どこでどんなものがあったのか」「やらなきゃこっちがたられるからやったのを虐殺と言っているのだと思います」と証言した東京日日新聞鈴木二郎は、戦後検事側証人として「百人斬り虐殺ではない」と証言し、さらにその後百人斬り競争について文章発表し山本七平鈴木明論争になったが、中山門上、励志社前などでそれぞれ数人ほどの敗残兵処刑下関死体1000体以上を目撃し「これら全て虐殺だったかどうというと全て虐殺だと必ずしも言えない。しかし、それは敗戦国運命で、虐殺になってしまいます。」、南京全体虐殺については「自分見たことではないか言えないわかりません」と証言した読売新聞森博カメラマンは、「捕虜にやる食糧がないし、収容する所がない、放してもまた兵隊になる、それで困って捕虜揚子江殺戮したと聞いた、しかし南京では市民への虐殺見ていないと証言した同盟通信新井正義は、中国兵死体便衣の者もいたし、中に捕虜死体もあっただろうが、20大虐殺聞いたとがない日本兵捕虜に米を入れてあげるのを見た入城直後には小売店甘味料もよく売っていた、虐殺については東京裁判ではじめ聞いた、と証言した同盟通信浅井達三カメラマンは、阿羅健一に対して当時社内事件話題にならなかった、パラマウントのアーサー・メンケンからも聞かなかった、浅井戦後東京裁判撮影したが、松井大将が起訴されるのは責任者だから仕方ない、ただし「20もの虐殺と言ってますが、数の面ではそうは思いません。南京人口大半がいなくなる数ですから」と証言したとされる。しかし、戦後の日本占領終了後まもなく出版され東京裁判扱った本に浅井南京事件関し南京陥落兵士たち続々城壁内に入ってきて、そのころから火事発生市内目抜き通りが焼払われた、兵士たち市民にした虐殺などは1週間亘って続いた、それがいたたまれ自身南京去ったと、寄稿している。 同盟通信細波孝は、湯山からと推測される捕虜連行見たあと、入城前日当日早朝下関でのトーチカ内や揚子江での死体見た、「それを見て国際法違反考えましたが、戦闘犠牲者だと思いました」「その頃は、やらなければこちらがやられますから」と証言しまた上支社長松本重治大学で何かがあったらしいので四人行ったが何も事件形跡はなかったと証言した 新愛知新聞の南正義は、13日中山門から入城すると日本兵死体2、3体が街路樹プラタナス吊るされ、火で炙ってあるのを見たが、中国人への「虐殺があったなど誰も言ってませんし、見ていない。日本戦争負けてから中国でっちあげ言い出したことです」と述べ、また捕虜殺害については「その時決戦捕虜なし』という言葉があって、捕虜という考え日本軍にはなかったと思います。もちろん中国だって、逃げる時は家を焼き払い、物を壊して逃げ便衣隊になってスパイをやるし、 捕虜になって助かるという気はありません。お互い捕虜という概念がなく、助かろうという気もないから、捕虜をやったというのも変な話です。それは、あとからこういう国際法照らし合わせればということでね。 戦場知らない人がそれを虐殺と言っているだけです。便衣隊のことを虐殺と言ってる人もいますが、それは虐殺ではありません」と証言した福岡日日新聞三苫幹之助は、陥落直後南京入りしたが「大虐殺の話なんか見て聞いてもおりません。痕跡すら何一つありませんでした」と証言している。また三苫書いた昭和14年福岡日日新聞記事では、中国人市民証言として、日本軍到着する以前南京安全区のイホロ難民区では、中国軍兵士や銃を持って夜昼検察来て食糧物品強奪し独身男性労役のために拉致され、夜は女性拉致されていた、と証言している。 都新聞小池秋羊は、中国兵戦死体は何十見たが、虐殺の話を聞いたことはない、ただし南京全部見たわけではない、と証言した。また小池は、日本補助憲兵難民区に潜入している敗残兵摘出し十人二十人かにまとめて連行した見ている。直接見ていないが、郊外射殺したではないか推測している。また、第16師団兵隊食糧などを掠奪しているのは目撃し、それをシャンハイ・イブニング・ポストやノースチャイナ・デイリー・ニューズなどの外人記者記事にした。小池はそれらの記事当時上海で目にした。 阿羅健一によれば福島民報の箭内正五郎は、第65連隊山田支隊)に従軍した軍紀乱れたともなく上海比べる南京はあまり激しくない戦線であった戦後にいわれた大虐殺はなかったと証言したという。 阿羅健一によれば海軍従軍絵画通信員画家の住谷磐根は、埠頭敗残兵1000人弱を銃剣処刑したのを目撃し翌朝いってみる遺体は約800体ほどでまだ動いている中国兵もいた、「これがあとで南京虐殺といわれたものだと思います」、ただし「日本軍としては中国兵殲滅なければなりません。それが戦争ですし、そうしない今度日本軍やられてしまいますそういう全体をわからなければ一部分取り上げて間違いなります南京虐殺といわれるのもそういうものです」、市民避難区にいたし中国兵逃走してたからいわゆる南京大虐殺ありえない自転車城内スケッチしてまわったが、虐殺一度見ていない、と証言したという。 阿羅健一によれば外務省情報部付の渡辺義雄カメラマンは、入城式の前日2日前に現地入りして、下関中国兵処刑していたと聞いた、あとで将校下士官聞く捕虜監獄入れた入りきれない食糧もなく、やむをえずやった、捕虜犯罪人合計一万人位いたと聞いたという。渡辺直接見たのは中国兵死体ばかりで、日本兵による残虐行為見ていないと証言したという。 阿羅健一によれば陸軍報道班員小柳次一カメラマンは、揚子江300人中国兵を殺したとは聞いたが「戦場からそういう話はいくらでもありますし、戦後いわれているような話は聞いたことがありません」と証言したという。 田中正明によれば読売新聞上海特派員だった原四郎は、陥落三ヶ月後に虐殺あったらしいと聞いたが、当時軍が箝口令敷いたわけでもなく、不思議に思ったので各支局に問い合わせた不明だったので、中国宣伝工作だろうというのが大方の意見だった、と証言したという。 雑誌「大亜細亜主義従軍記者田中正明1938年8月南京滞在した田中当時従軍した大宅壮一木村毅杉山平助野依秀市西條八十草野心平林芙美子石川達三もそれらの視察記や紀行文中には"大虐殺”を匂わすような文章はどこにも見当たらないとする。(実際には、大宅戦後、相当の大規模虐殺があったということは十分いえると述べている。また、石川達三戦後読売新聞から二度取材受けており、いずれも自分はは遅れて南京入ったので現場見ていないがかなりの虐殺があった痕跡・余燼はあったと述べている。西條八十にも雑誌・新聞への寄稿文かなりの数の捕虜虐殺思われるものについて書いているものがあるとされる杉山平助至っては、事件当時朝日新聞に、城壁のほとりには中国人死骸ツクダニのように折り重なっている、それを善悪ではなく現実問題だ、たわけた指導について国民党政府がいかに筋の通ったことを言おう無辜生民惨害受けたことは償われない、と文を寄稿している。また、当時朝日新聞南京支社若手記者らに、勝利為に一切道徳律無力であり無能だ、と語ったという。) 阿羅健一によれば朝日新聞藤本亀記者12月13日光華門から南京入ったが、「従軍の間、特別に何の事件見た聞いたりはしませんでした」と証言したという。 阿羅健一によれば大阪毎日新聞西野記者第九師団と共に光華方面から南京入城したが、虐殺当時聞いたとがない、「戦場では幾多流説があるのが当然のことです」と語ったという。 中央公論社特派員として従軍した作家石川達三1946年、「女をはづかしめ殺害し民家のものを掠奪し等々暴行いたるところで行はれた、入城式におくれて正月私が南京着いたとき街上は屍累々大変なものだつた、大きな建物一般中国人数千おしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶死させた。また武装解除した捕虜練兵場あつめて機銃一斉射撃で葬つた、しまひには弾丸使ふのはもつたいないとあつて、揚子江長い桟橋作り、河中へ行くほど低くなるやうにしておいて、 この上中国人行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切つて河中へつきおとしたり逃げ口ふさがれ黒山のやうな捕虜戸板へつかまつて川を流れて行くのを下流待ちかまへた駆逐艦機銃のいつせい掃射で 片ツぱしから殺害した戦争中興奮から兵隊無軌道行動逸脱するのはありがちのことではあるが、南京場合いくら何でも無茶だと思つた、 三重県からきた片山某といふ従軍僧読経なんかそツちのけで殺人をしてあるいた左手数珠をかけ右手にシヤベルを持つて民衆とびこみ、にげまどふ武器なき支那兵をたゝき殺して歩いた、その数は廿名を下らない彼の良心そのことで少しも痛まず部隊長師団長のところで自慢話してゐた、支那へさへ行けば簡単に人も殺せるし女も勝手にできるといふ考へが日本人全体中に永年培はれてきたのではあるまいか。ただしこれらの虐殺暴行松井司令官が知つてゐたかどうかは知らぬ一般住民でも抵抗するものは容赦なく殺してよろしい』といふ命令首脳部からきたといふ話をきいたことがあるがそれが師団長からきたものか部隊長からきたものかそれも知らなかつた」と書いた。が、後年田中正明は、石川田中へのインタビューに「大殺戮痕跡一片見ておりません」と証言した主張した。また石原慎太郎は、大虐殺はなかったと石川言ったのを直に聞いた主張する阿羅健一石川亡くなる3か月前の1984年10月インタビュー申込みその時には石川胃潰瘍病後会えなかったが、「私が南京入ったのは入城式から二週間後です。大殺戮痕跡一片見ておりません。何死体の処理はとても二、三週間では終わらない思います。あの話は私は今も信じてはおりません」と返事貰ったとする。しかし、これら田中石原阿羅3名の主張はいずれ石川達三死後になって為されたもので、実際には、石川達三は、生前南京事件に関して読売新聞取材戦後二度わたって受けており、そこではいずれ虐殺痕跡があったことを述べている。また自著においては虐殺現場目撃はしていないものの「大体のこと」を知っており「事件そのもの否定することはできなかった」ことや、東京裁判対す批判的意識もあり当時は「日本軍立場弁護した」ことを記している。田中石原阿羅3名はいずれもこのことを知らなかったと見られる石原慎太郎は、都知事時代記者会見石川達三の話との違い記者一人指摘されると、石川達三二枚舌使ったのかも分からない主張、あくまで嘘をついているのは、自分ではなく石川方だとする立場をとって、その記者質問打切り、他の記者への質問回答始めた前田雄二 (同盟通信社社会部記者) は1937年12月16日新井写真祓川らと軍官学校処刑現場目撃した捕虜一人ずつ校庭に引きだし、下士官がそれを前方防空壕方向走らせ待ち構えた兵隊銃剣背後から突き貫き、壕に転げ落ちると、止めを刺すという「処刑」を三カ所で並行して実行しており、傍ら将校は「新兵教育だ」といったという。午後交通銀行の裏の池の畔でも捕虜処刑されているのを連絡員中村太郎目撃した12月17日夜に揚子江岸の千、二千達す死体見て城内警備司令部参謀尋ねると「少数日本部隊が、多数投降部隊護送中に逆襲受けたので撃滅した」との説明受けた前田後年、これらは戦闘範囲に入るものであり、十数万と三十万人ともいわれる大虐殺に対して、「長江沿いや江門、それに“処刑”、私自身見た事実、これらの中には戦闘につながるものがあるかも知れないが、これらの事実になって噂が拡幅され、戦争被害までが積み重ねられて、巨大な数字ふくれあがった」ものである主張している。 東京朝日新聞記者足立和雄1965年に「日本軍大部隊が、南京めざして四方八方から殺到した。それといっしょに多数従軍記者南京集ってきた。そのなかに、守山君と私もふくまれていた。朝日新聞支局のそばに、焼跡でできた広場があった。そこに、日本兵看視されて、中国人長い列を作っていた。南京とどまっていたほとんどすべての中国人男子が、便衣隊称して捕えられたのである私たち仲間がその中の一人を、事変前に朝日支局使っていた男だと証言して助けてやった。そのことがあってから、朝日支局には助命を願う女こども押しかけてきたが、私たちの力では、それ以上何ともできなかった。"便衣隊"は、その妻や子が泣き叫ぶ眼の前で、つぎつぎ銃殺された。「悲しいねえ」私は、守山君にいった。守山君も、泣かんばかりの顔をしていた。そして、つぶやいた。「日本は、これで戦争に勝つ資格失ったよ」と。内地では、おそらく南京攻略祝賀行事沸いていたときに、私たちの心は、怒り悲しみふるえていた」と書いたが、1987年足立和雄は、「大虐殺」は見ていない、ただし、軍の便衣隊掃蕩にはやりすぎあったかしれない証言。また『守山義雄文集』に寄稿した「私と南京大虐殺」という題名は「不用意だった」と後に反省の弁述べている。また、南京大虐殺については意識的に嘘をついているがたくさんいる」と述べ後輩本多勝一主張にも残念だ批判している。 同盟通信社特派員小山丈夫は、1938年夏の外人記者南京視察団から虐殺事件について質問も受けなかったし、小山東京裁判初め事件知った証言

※この「「大虐殺」がなかったとする証言」の解説は、「南京事件の証言」の解説の一部です。
「「大虐殺」がなかったとする証言」を含む「南京事件の証言」の記事については、「南京事件の証言」の概要を参照ください。

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