「大虐殺」がなかったとする証言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 16:40 UTC 版)
「南京事件の証言」の記事における「「大虐殺」がなかったとする証言」の解説
(ほとんどが現場にかかわってない士官であることに留意。また、歴史家秦郁彦によれば、彼の経験によるとして、将校は概して口が固く、クロの状況を語ったり、日記やメモを提供するのは、応召の兵士が大多数であるとする。) 陸軍 松井石根中支那方面軍司令官は東京裁判で「(大虐殺は)公的な報告を受けたことがなく、終戦後米軍の放送で初めて知った」と証言し、供述書では「巡視の際、約20人の中国兵の戦死体を見たが、市内の秩序はおおむね回復した」と述べ、「南京入城後、非行が行われたと憲兵隊長から聞き、各部隊に調査と処罰をさせた」と証言した。当時松井の部下である武藤章は、南京入城時に松井とともに10ー20件程度の事件があったと聞いたこと、軍法会議で10件から20件程度の事件がかけられていた事、1件で10人かそれを超える人数が裁かれていたものもあった事、彼が確かに存在したことを知る軍法会議法廷は一つだけだが他にも法廷が複数開かれていただろうと信じている事等を裁判前の尋問で供述している。 上海派遣軍参謀・大西一大尉。1937年12月13日午後から南京に入城し、南京陥落後一年間特務機関長として滞在した。当時、上海派遣軍の中で虐殺について「話題になったことはない」、強姦は何件かあったが、暴行や掠奪は見たことがないと証言。ただし、偕行社の高橋登志郎は、大西の論文について単にシロだシロだというだけとして、反論にならないものと考えている。 上海派遣軍嘱託、軍司令官付・岡田尚は、強姦は数えるほどで、「(一般市民を)虐殺したということはありえません」、城内での火事についても記憶がない、しかし捕虜や敗残兵について「やったことはある」が、当時の状況で「果たしてそれが虐殺といえるか」疑問であると証言したうえで、自らを中国びいきであるとし、満州国建設にも反対であったし、日支事変で日本がやりすぎたこともあるが、南京防衛の中国軍が降伏勧告を受け入れなかったのは中国側で、その責任者の唐生智が逃げたことを批判し、降伏拒否がなければ捕虜殺害もなかったと述べている。なお岡田は1937年12月12日に蘇州から湯水鎮へ向かう途中で女性兵士を含む中国兵捕虜千人から二千人がクリークの土手に座らされて処刑されているのを目撃している。 第10軍参謀・谷田勇は、1937年12月14日午後3時、下関埠頭に死体1000人〜3000人があったが、これは第16師団が追い詰めたもので、「これが後日虐殺を称されているものではないか」と述べ、さらに12月19日までの南京滞在の間に「死体数は数千ないし一万程度で、まして集団虐殺の跡などは発見できませんでした。したがって、中国側が終戦後の極東国際軍事裁判で主張した数十万は誇大意図的な誇張であると確信いたしております」と証言した。 第10軍参謀・金子倫介は、南京事件について「聞いたことはありませんでした。戦後、東京裁判で聞いてびっくりしました。何か隠しているとか、言い渋っているとかいうことはなく、本当に南京では何も見てません。」と証言した。 第10軍参謀・吉永朴(すなお)。「南京大虐殺は白髪三千丈式に、後で中国人が言っていること」と証言した。 第10軍参謀・寺田雅雄は、第10軍の軍紀はそれほど悪くはなかったし、当時南京事件を聞いたことはないと証言した。 第10軍参謀・仙頭俊三は「12月12日、浦口(揚子江をはさんで下関の対岸)に進出した時、浦口には味方の十五榴(九六式十五糎榴弾砲)が盛んに落下していました。揚子江両岸に浮遊した敵の死体は目撃したところ数百でしょうか、中流にはあまり死体は認めませんでした。下関の岸壁が鮮血に染っていたのを目撃し、かつ死体は手足をしばられていたようでした。虐殺ということは当時は全く知りませんでした。軍紀に関して国崎支隊に関する限り悪かったことはありません」と証言した。 侍従武官の後藤光蔵は南京に入城した時、「南京は人一人いない街となっており、小生はその一軒に泊まったのですが、何事もありませんでした」と証言した。 上海派遣軍特務部員・経理将校の岡田酉次。中国軍には女性兵士がいた、抵抗する敗残兵もいて、便衣兵もいて、「これらがやられるのも見ました。これらの屍があとで虐殺と言われたのではないでしょうか」と証言している。 参謀本部庶務課長・諫山春樹は、参謀本部庶務課は全ての報告に目を通すが、日本兵の軍紀が悪かったと当時話題になったことはなく、また「虐殺事件が話題になったことも、箝口令をしいたことも絶対にありません」と証言した。 陸軍省軍務局軍事課編成班・中支那派遣軍参謀(昭和13年)大槻章は、虐殺事件について「そういった形跡は全然ありませんでした。何もない。軍司令部参謀といろんな話をしたが、話題になったことも、聞いたこともない。虐殺があったというのは嘘」であり、「虐殺なんていうのは命令がなければできないこと」で、あったとすれば当時話題になったはずだと証言している。 野砲兵第22連隊長・(終戦時第21師団長)三国直福は、当時日本兵の軍紀の乱れや事件について何も聞かなかったと証言し、さらに自分が広東での戦犯裁判で被告になった経験について、裁判はめちゃくちゃで、罪状では三国が汪兆銘政権を作ったとか(三国は南京特務機関長だったが深くかかわっていないと述べている)、中国市民に暴行をふるったなどで、証拠を求めると、中国軍が市民に被害を出せと命令して出したもので、場所も日付も師団のいた場所とほとんど合致しないものであったと証言している 上海憲兵隊の岡村適三は、当時、事件についても軍紀についても特別聞いたことはない、日本軍が威張っているということは聞いたと証言した 第16師団歩兵第20連隊(福知山連隊)大隊長森王琢は「私の大隊は南京城の東正門の中山門を攻撃した。激戦したが、13日の午前3時10分、砲撃で城壁を崩し、その勢いではい上がり、軍旗を立てました。私はその時は城外の丘の上におり、城内には師団長と共に十五日に入場した。宿営地について陸軍省の先輩に会い、その日の午後、二人で戦場の視察に出かけた。山陵、紫金山など見て歩いた。翌年の1月19日に命令で転進したが、それまでは南京とその周辺の警備に当たつていた。したがって南京の大虐殺が行われたという時期、あったかないか、私は確信をもってお話しできるただ一人の人間だと思っています。例えば火事があったという人、なかったという人がいる。あったという場合には焼け跡を示すことが出来るが、なかった場合というのは、明かしは立てにくい。それと同じで、南京で虐殺があった、婦人が乱暴された、家が焼かれたと盛んに言われているが、それがほとんどウソであることを申し上げる」と証言している。 第6師団歩兵第23連隊中隊長の吉川正司は、「突入翌日の12月13日には城内の掃蕩をやっているが、城内に敵兵は一兵も見ず、一般住民もいない全くの死の街であった。連隊はそれ以降、主力を水西門東南方地区の市街地に、第1大隊をもって12月21日まで水西門外に駐屯し、警備にあたったが、翌13年1月13日に蕪湖へと転進するまで、虐殺事件など見たことも聞いたこともなかったと断言できる。」と証言。 第6師団歩兵第23連隊第2中隊長・坂元昵。 第6師団歩兵第23連隊安楽秀雄。 第6師団歩兵第23連隊中山有良。 第6師団歩兵第13連隊伍長古沢智 第6師団歩兵第47連隊獣医務曹長の城光宣は、昭和12年12月13日中華門から入城、「城内は空っぽ」で兵隊も住民もいなかった、「無抵抗の民間人を殺すのが虐殺。だが、人がいない以上、虐殺があるはずがない」し、城内では遺体も見ていないと証言。また中国戦線に5年間従軍したが、中国人の集落に駐留する場合は、日本軍と住民を分けるため集落の中央に線を引き、住民側に立入禁止を厳命され、憲兵もいたし、違反は絶対にできなかった。軍紀はそれほど厳しかったと証言している。さらに30万人虐殺したはでっち上げであり、貶められるのは我慢ならないし、南京裁判で死刑になった谷寿夫中将に対して何もしていないので哀れであると述べた。 第6師団第13連隊 第3大隊 砲兵小隊・永田尚武 第9師団 第18旅団司令部・齋藤敏胤 第9師団歩兵第7連隊・喜多留治は、12月14日からの掃討戦に参加し、安全区の警備も担当した。喜多は、安全区の民間人になりすました便衣兵掃討には厳重な命令があり、住民への配慮や、将校の指揮に必ず従うことを命じられており、掃討は同師団の金沢、富山連隊が担当し、他部隊が安全区に入らないよう「金沢」「富山」という合言葉を使うなど警備は厳重で、そうした警備をすり抜けて日本軍が略奪や強姦するなどということは「ありえないことです」と証言。 第9師団 歩兵第7連隊 第11中隊・納谷勝 第9師団歩兵第36連隊伍長・近藤平太夫は陥落後は「露店が何軒か出ていて、日本兵相手に商売をしていた。靴修理店、散髪屋などだった」「露店で印鑑を作り、城内は極めて平穏だった」「住民が平和に商売をしている一方で、毎日たくさんの人が虐殺されているというようなことは全く考えられません」と証言。 野中祥三郎 第16師団歩兵第20連隊伍長の橋本光治は、昭和12年12月13日に入城、12月23日まで城内外の敗残兵掃討作戦に参加。橋下は戦後、当時部下の上等兵だった東史郎から著書で郵便袋に中国人を入れて殺害したと著書に書かれ、名誉毀損で提訴し勝訴した(最高裁確定)。橋下は「戦争中も軍紀は守られていた。そんな残虐行為ができるわけがない」また、「婦女子に手をかけてはいけないと厳命されていたし、夜間外出は禁止され、任務以外に自由な時間はありませんでした」と主張した。 第16師団輜重兵16連隊第6中隊・稲垣清は12月16日に入城し、住民の姿をみかけ、時計の修理のため時計屋を訪れたと証言。 第16師団第33連隊第2大隊第5中隊第1小隊長・市川治平 歩兵第65連隊(両角業作部隊)の栗原利一は12月17日幕府山事件での捕虜殺害について証言を残しているが、「殺したなかに一般人は一人もいない。当時日本軍の戦果は私たちの13,500を含めて7万といわれていたが、現在中国で言うような30万、40万という大虐殺などとても考えられない。」と述べた。但し、栗原は様々な人から取材を受けており、後の方の取材は往々にして先行取材を難じ、当初から計画されていた殺害であった可能性をより強く否定する方向のものになっているが、寧ろ後の方の取材の方に、その取材結果とする内容に疑義が出されている。 第36師団歩兵第224連隊の内貴直次少尉は陥落の6年後の昭和18年夏に南京に滞在したが「街は商店や人であふれ、平和な様子だった。もし、大虐殺があれば、住民の恨みを買い、われわれは平穏に駐留できなかったはずだ」と証言。 陸軍士官学校58期の和田泰一少尉は「当時の記録を読めば事実は別にあることは明らかなのに大虐殺説を許してきた私たちの責任も大きい」と述べた。 独立軽装甲車第二中隊小隊長の畝元正己が、以下のように南京戦の実態を述べる。江南平野200マイルの南京追撃戦で日本軍は一地に長く駐留することはなかったし、掠奪や暴行を行っておらず、都市の戦禍は攻防戦によって生じたもので、日本軍のみの故意のものではないと述べている。日本軍は追撃にあたって敗残兵を深追いしなかったため、村落や山中に逃走した敗残兵が、便衣兵としてゲリラ化し、後方部隊を襲撃して日本軍を悩ませたとする。また、日本軍は補給が不十分であったため将兵が鬼獣化したと称されるが、上海南京間200里を約一ヶ月(11/11〜12/13)で進撃したため、一日行程平均7里で補給作戦は困難なものではなかったし、上陸後引き続いて追撃に移った当初は補給不足のため現地物資によったが、12月10日以後は後方兵站も追随していた、と証言する。また、上海派遣軍参謀大西一は、松井司令官よる蘇州の文化と住民の保護を命じられ、日本軍入城を禁じたと主張する。上海攻略戦において、第9師団司令部は城内に入らず、その翌日に到着した軍司令部は蘇州城外に司令部を置いた。但し、この蘇州は上海に隣接した都市であり、東京裁判に備えた尋問で松井大将が上海の南市安全区に寄付した事を自己弁護に使うほどで、この地域の状況は相当異なっていたと考えられる。 海軍 第3艦隊第11戦隊の砲艦勢多艦長の寺崎隆治は、「その時は戦争ですから抵抗する中国兵は射殺しましたし、混乱してますから逃げまどっている住民や反抗する市民も多少はいたでしょう。それは戦争の続きです。こういう情況のもとに起こった戦死体を戦後、南京虐殺だと言っている」と証言している。また南京裁判で処刑された谷寿夫について「国際通で、国際法に詳しい人ですから、それを考えても南京虐殺は間違いだ」と証言している。 第三艦隊第11戦隊の砲艦比良艦長の土井申二は、宝塔橋街の治安回復を行い、紅卍字会の陳漢森から礼状を受け取ったが、虐殺はなかった、礼状もそうだが中国人は誇張して表現すると証言した。 上海海軍武官府、第3艦隊司令部付の重村実は、入城式のため12月17日に到着したが、目撃したのは中国人が民家に入って、便器など手当たり次第掠奪している姿で、日本兵による残虐行為は見ていないが、便衣兵を殺害したとは聞いた、「この時、兵隊なのか市民なのか、それは中国人に指摘させた」と聞いたと証言した。 第二連合航空隊参謀・源田実。 海軍第12航空隊3等航空兵曹の原田要は九五式艦上戦闘機で光華門を攻撃したが、陥落後の城内は露店が立ち、「南京は誠に和やかに尽きる、という印象でした」「非常に平和な進駐」だったと記憶していると証言し、「何十万人もの大虐殺は信用できない。もし、大虐殺があれば、中国人はわれわれに和やかに接しただろうか」と述べている。 文官 福田篤泰は当時南京の日本大使館で南京安全区国際委員会委員長ジョン・ラーベとの交渉にもあたっていた外交官補。「20万、30万の虐殺はおろか千単位の虐殺も絶対にない。(略)衆人環視の中である。そんなことなどしたら、それこそ大問題だ。絶対にウソである。宣伝謀略である」と述べた。また、「残虐行為の現場は見ていないがあれだけ言われる以上残念ながら相当あったと思う、しかし私の体験からすれば、本に書いてあるものはずいぶん誇張されているようだ」と述べた。ただし、戦後長らく国会議員として、南京虐殺があったという話を喜ばない政治家の多い自民党で渡っていかねばならなかった人物であるため、立場上言えないこともあったとも考えられる。実際に発言の主眼となる部分があまりに奇妙な内容であったりするため、聞いた人が真に受けないよう敢えてわざとそのような言い方をしたのではないかとさえ思え、真実か疑う声もある。 企画院事務官(陸軍省から出向)岡田芳正は、南京事件について当時聞いたことはなく、戦後はじめて聞いた、「南京事件というのは、中国がそれまでやってきた宣伝戦を戦後を行ったまでのこと」と証言した。 外務省領事館補の岩井英一。 陥落と同時に南京入りし、年明けに南京総領事館で勤務した領事館補の粕谷孝夫は、事件について直接聞いたことはなく、渉外部長広田豊大佐からも聞いていないと証言した。 西本願寺の従軍僧侶大谷光照法主は12月14日に南京入りし、17日の入城式に参列、18日の慰霊祭を行ったが「虐殺を見ておりませんし、噂も聞きませんでした。もうその時は戦闘は全く終息していて一市内は平静で一市民の盗もほとんど見かけず、虐殺の起るような環境ではありませんでした。日本軍は城内城外に適宜宿営し、のんびり休養をとっていました」と証言。 報道員 大阪朝日新聞の山本治は、「朝日新聞では話題になったこともありません」、また白川威海上海支局長からも聞いていないと証言。 東京朝日新聞・橋本登美三郎(当時上海支局次長)は、事件は全然聞いていない、もし事件が発生していれば、記者の間で話題になるはずだと証言した。 陥落後から一ヶ月間南京にいた東京日々新聞金沢喜雄カメラマンは、「私は南京をやたら歩いていますが、虐殺を見たことがなければ兵隊から聞いたこともありません」、また新聞社内では一度も話題になっていないと証言した。 大阪毎日新聞の五島広作は第6師団(谷寿夫師団長)に従軍し1938年1月10日まで南京にいたが、中国人虐殺命令は聞いたことがなく、「東京裁判があってからの作り話」ではないか、と証言した。また、事件があったらしいと噂を当時聞いたので朝日、読売、同盟各社に問い合わせたが、どの社も知らないので、中国の宣伝工作だろうと考えたとも証言した。 報知新聞の二村次郎カメラマンは、揚子江での死体について聞いたことがあるが「虐殺されたものではなく、数が多いので話題になったのだと思います」と証言した。 報知新聞の田口利介は、南京城内で見た死体は2,3体で、下関にも何もなかったと証言。 読売新聞の樋口哲雄カメラマンは、「(虐殺の)形跡を見たことがありません。あったとよくいわれていますが、どこでどんなものがあったのか」「やらなきゃこっちがたられるからやったのを虐殺と言っているのだと思います」と証言した。 東京日日新聞の鈴木二郎は、戦後検事側証人として「百人斬りは虐殺ではない」と証言し、さらにその後百人斬り競争について文章を発表し、山本七平、鈴木明と論争になったが、中山門上、励志社前などでそれぞれ数人ほどの敗残兵の処刑、下関の死体1000体以上を目撃し「これら全てが虐殺だったかどうかというと、全てが虐殺だと必ずしも言えない。しかし、それは敗戦国の運命で、虐殺になってしまいます。」、南京全体の虐殺については「自分が見たことではないから言えない、わかりません」と証言した。 読売新聞の森博カメラマンは、「捕虜にやる食糧がないし、収容する所がない、放してもまた兵隊になる、それで困って」捕虜を揚子江で殺戮したと聞いた、しかし南京では市民への虐殺は見ていないと証言した。 同盟通信の新井正義は、中国兵の死体に便衣の者もいたし、中に捕虜の死体もあっただろうが、20万の大虐殺は聞いたことがない、日本兵が捕虜に米を入れてあげるのを見た、入城式直後には小売店や甘味料もよく売っていた、虐殺については東京裁判ではじめて聞いた、と証言した。 同盟通信の浅井達三カメラマンは、阿羅健一に対して、当時社内で事件は話題にならなかった、パラマウントのアーサー・メンケンからも聞かなかった、浅井は戦後東京裁判を撮影したが、松井大将が起訴されるのは責任者だから仕方ない、ただし「20万もの虐殺と言ってますが、数の面ではそうは思いません。南京の人口の大半がいなくなる数ですから」と証言したとされる。しかし、戦後の日本占領終了後まもなく出版された東京裁判を扱った本に、浅井は南京事件に関し、南京陥落後兵士たちが続々と城壁内に入ってきて、そのころから火事が発生、市内の目抜き通りが焼払われた、兵士たちが市民にした虐殺などは1週間に亘って続いた、それがいたたまれず自身は南京を去ったと、寄稿している。 同盟通信の細波孝は、湯山からと推測される捕虜の連行を見たあと、入城式前日か当日の早朝に下関でのトーチカ内や揚子江での死体を見た、「それを見て、国際法違反も考えましたが、戦闘の犠牲者だと思いました」「その頃は、やらなければこちらがやられますから」と証言し、また上海支社長の松本重治と大学で何かがあったらしいので四人で行ったが何も事件の形跡はなかったと証言した 新愛知新聞の南正義は、13日に中山門から入城すると日本兵の死体2、3体が街路樹のプラタナスに吊るされ、火で炙ってあるのを見たが、中国人への「虐殺があったなど誰も言ってませんし、見ていない。日本が戦争で負けてから中国がでっちあげて言い出したことです」と述べ、また捕虜殺害については「その時『決戦に捕虜なし』という言葉があって、捕虜という考えは日本軍にはなかったと思います。もちろん中国だって、逃げる時は家を焼き払い、物を壊して逃げ、便衣隊になってスパイをやるし、 捕虜になって助かるという気はありません。お互い捕虜という概念がなく、助かろうという気もないから、捕虜をやったというのも変な話です。それは、あとからこういう国際法に照らし合わせればということでね。 戦場を知らない人がそれを虐殺だと言っているだけです。便衣隊のことを虐殺だと言ってる人もいますが、それは虐殺ではありません」と証言した。 福岡日日新聞の三苫幹之助は、陥落直後の南京入りしたが「大虐殺の話なんか見ても聞いてもおりません。痕跡すら何一つありませんでした」と証言している。また三苫が書いた昭和14年の福岡日日新聞記事では、中国人市民の証言として、日本軍が到着する以前の南京安全区のイホロ難民区では、中国軍兵士や銃を持って夜昼検察に来て、食糧や物品を強奪し、独身男性は労役のために拉致され、夜は女性が拉致されていた、と証言している。 都新聞の小池秋羊は、中国兵の戦死体は何十体見たが、虐殺の話を聞いたことはない、ただし南京全部を見たわけではない、と証言した。また小池は、日本の補助憲兵が難民区に潜入している敗残兵を摘出し、十人か二十人かにまとめて連行したを見ている。直接見ていないが、郊外で射殺したのではないかと推測している。また、第16師団の兵隊が食糧などを掠奪しているのは目撃し、それをシャンハイ・イブニング・ポストやノースチャイナ・デイリー・ニューズなどの外人記者が記事にした。小池はそれらの記事を当時上海で目にした。 阿羅健一によれば、福島民報の箭内正五郎は、第65連隊(山田支隊)に従軍したが軍紀が乱れたこともなく、上海と比べると南京はあまり激しくない戦線であった、戦後にいわれた大虐殺はなかったと証言したという。 阿羅健一によれば、海軍従軍絵画通信員で画家の住谷磐根は、埠頭で敗残兵1000人弱を銃剣で処刑したのを目撃し、翌朝いってみると遺体は約800体ほどでまだ動いている中国兵もいた、「これがあとで南京虐殺といわれたものだと思います」、ただし「日本軍としては中国兵を殲滅しなければなりません。それが戦争ですし、そうしないと今度は日本軍がやられてしまいます。そういう全体をわからなければ一部分を取り上げても間違いになります。南京虐殺といわれるのもそういうものです」、市民は避難区にいたし中国兵は逃走していたからいわゆる南京大虐殺はありえない、自転車で城内をスケッチしてまわったが、虐殺は一度も見ていない、と証言したという。 阿羅健一によれば、外務省情報部付の渡辺義雄カメラマンは、入城式の前日か2日前に現地入りして、下関で中国兵を処刑していたと聞いた、あとで将校と下士官に聞くと捕虜を監獄に入れたが入りきれないし食糧もなく、やむをえずやった、捕虜と犯罪人で合計一万人位いたと聞いたという。渡辺が直接見たのは中国兵の死体ばかりで、日本兵による残虐行為は見ていないと証言したという。 阿羅健一によれば、陸軍報道班員の小柳次一カメラマンは、揚子江で300人中国兵を殺したとは聞いたが「戦場だからそういう話はいくらでもありますし、戦後いわれているような話は聞いたことがありません」と証言したという。 田中正明によれば、読売新聞上海特派員だった原四郎は、陥落後三ヶ月後に虐殺があったらしいと聞いたが、当時軍が箝口令を敷いたわけでもなく、不思議に思ったので各支局に問い合わせたが不明だったので、中国の宣伝工作だろうというのが大方の意見だった、と証言したという。 雑誌「大亜細亜主義」従軍記者の田中正明。1938年8月に南京に滞在した。田中は当時従軍した大宅壮一、木村毅、杉山平助、野依秀市、西條八十、草野心平、林芙美子、石川達三もそれらの視察記や紀行文の中には"大虐殺”を匂わすような文章はどこにも見当たらないとする。(実際には、大宅は戦後、相当の大規模の虐殺があったということは十分いえると述べている。また、石川達三は戦後、読売新聞から二度取材を受けており、いずれも、自分はは遅れて南京に入ったので現場は見ていないがかなりの虐殺があった痕跡・余燼はあったと述べている。西條八十にも雑誌・新聞への寄稿文でかなりの数の捕虜虐殺と思われるものについて書いているものがあるとされる。杉山平助に至っては、事件当時の朝日新聞に、城壁のほとりには中国人の死骸がツクダニのように折り重なっている、それを善悪ではなく現実の問題だ、たわけた指導について国民党政府がいかに筋の通ったことを言おうと無辜の生民が惨害を受けたことは償われない、と文を寄稿している。また、当時の朝日新聞の南京支社で若手記者らに、勝利の為には一切の道徳律は無力であり無能だ、と語ったという。) 阿羅健一によれば、朝日新聞・藤本亀記者は12月13日、光華門から南京に入ったが、「従軍の間、特別に何の事件も見たり聞いたりはしませんでした」と証言したという。 阿羅健一によれば、大阪毎日新聞・西野源記者は第九師団と共に光華門方面から南京に入城したが、虐殺は当時聞いたことがない、「戦場では幾多の流説があるのが当然のことです」と語ったという。 中央公論社特派員として従軍した作家の石川達三は1946年、「女をはづかしめ、殺害し、民家のものを掠奪し、等々の暴行はいたるところで行はれた、入城式におくれて正月私が南京へ着いたとき街上は屍累々大変なものだつた、大きな建物へ一般の中国人数千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶死させた。また武装解除した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬つた、しまひには弾丸を使ふのはもつたいないとあつて、揚子江へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるやうにしておいて、 この上へ中国人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切つて河中へつきおとしたり逃げ口をふさがれた黒山のやうな捕虜が戸板や机へつかまつて川を流れて行くのを下流で待ちかまへた駆逐艦が機銃のいつせい掃射で 片ツぱしから殺害した。戦争中の興奮から兵隊が無軌道の行動に逸脱するのはありがちのことではあるが、南京の場合はいくら何でも無茶だと思つた、 三重県からきた片山某といふ従軍僧は読経なんかそツちのけで殺人をしてあるいた、左手に数珠をかけ右手にシヤベルを持つて民衆にとびこみ、にげまどふ武器なき支那兵をたゝき殺して歩いた、その数は廿名を下らない、彼の良心はそのことで少しも痛まず部隊長や師団長のところで自慢話してゐた、支那へさへ行けば簡単に人も殺せるし女も勝手にできるといふ考へが日本人全体の中に永年培はれてきたのではあるまいか。ただしこれらの虐殺や暴行を松井司令官が知つてゐたかどうかは知らぬ 『一般住民でも抵抗するものは容赦なく殺してよろしい』といふ命令が首脳部からきたといふ話をきいたことがあるがそれが師団長からきたものか部隊長からきたものかそれも知らなかつた」と書いた。が、後年、田中正明は、石川は田中へのインタビューに「大殺戮の痕跡は一片も見ておりません」と証言したと主張した。また石原慎太郎は、大虐殺はなかったと石川が言ったのを直に聞いたと主張する。阿羅健一は石川が亡くなる3か月前の1984年10月にインタビューを申込み、その時には石川が胃潰瘍の病後で会えなかったが、「私が南京に入ったのは入城式から二週間後です。大殺戮の痕跡は一片も見ておりません。何万の死体の処理はとても二、三週間では終わらないと思います。あの話は私は今も信じてはおりません」と返事を貰ったとする。しかし、これら田中、石原、阿羅3名の主張はいずれも石川達三の死後になって為されたもので、実際には、石川達三は、生前、南京事件に関して読売新聞の取材を戦後も二度にわたって受けており、そこではいずれも虐殺の痕跡があったことを述べている。また自著においては虐殺現場を目撃はしていないものの「大体のこと」を知っており「事件そのものを否定することはできなかった」ことや、東京裁判に対する批判的意識もあり当時は「日本軍の立場を弁護した」ことを記している。田中、石原、阿羅3名はいずれもこのことを知らなかったと見られる。石原慎太郎は、都知事時代の記者会見で石川達三の話との違いを記者の一人に指摘されると、石川達三が二枚舌を使ったのかも分からないと主張、あくまで嘘をついているのは、自分ではなく石川の方だとする立場をとって、その記者の質問を打切り、他の記者への質問回答を始めた。 前田雄二 (同盟通信社社会部記者) は1937年12月16日、新井と写真の祓川らと軍官学校で処刑現場を目撃した。捕虜を一人ずつ校庭に引きだし、下士官がそれを前方の防空壕の方向に走らせ、待ち構えた兵隊が銃剣で背後から突き貫き、壕に転げ落ちると、止めを刺すという「処刑」を三カ所で並行して実行しており、傍らの将校は「新兵教育だ」といったという。午後、交通銀行の裏の池の畔でも捕虜が処刑されているのを連絡員の中村太郎と目撃した。12月17日夜には揚子江岸の千、二千に達する死体を見て、城内の警備司令部参謀に尋ねると「少数の日本部隊が、多数の投降部隊を護送中に逆襲を受けたので撃滅した」との説明を受けた。前田は後年、これらは戦闘の範囲に入るものであり、十数万とも三十万人ともいわれる「大虐殺」に対して、「長江沿いや江門、それに“処刑”、私自身が見た事実、これらの中には戦闘につながるものがあるかも知れないが、これらの事実が核になって噂が拡幅され、戦争被害までが積み重ねられて、巨大な数字にふくれあがった」ものであると主張している。 東京朝日新聞記者の 足立和雄 は1965年に「日本軍の大部隊が、南京をめざして四方八方から殺到した。それといっしょに、多数の従軍記者が南京に集ってきた。そのなかに、守山君と私もふくまれていた。朝日新聞支局のそばに、焼跡でできた広場があった。そこに、日本兵に看視されて、中国人が長い列を作っていた。南京にとどまっていたほとんどすべての中国人男子が、便衣隊と称して捕えられたのである。私たちの仲間がその中の一人を、事変前に朝日の支局で使っていた男だと証言して、助けてやった。そのことがあってから、朝日の支局には助命を願う女こどもが押しかけてきたが、私たちの力では、それ以上何ともできなかった。"便衣隊"は、その妻や子が泣き叫ぶ眼の前で、つぎつぎに銃殺された。「悲しいねえ」私は、守山君にいった。守山君も、泣かんばかりの顔をしていた。そして、つぶやいた。「日本は、これで戦争に勝つ資格を失ったよ」と。内地では、おそらく南京攻略の祝賀行事に沸いていたときに、私たちの心は、怒りと悲しみにふるえていた」と書いたが、1987年に足立和雄は、「大虐殺」は見ていない、ただし、軍の便衣隊掃蕩にはやりすぎがあったかもしれないと証言。また『守山義雄文集』に寄稿した「私と南京大虐殺」という題名は「不用意だった」と後に反省の弁を述べている。また、「南京大虐殺については意識的に嘘をついている人がたくさんいる」と述べ、後輩の本多勝一の主張にも残念だと批判している。 同盟通信社特派員の小山丈夫は、1938年夏の外人記者南京視察団から虐殺事件について質問も受けなかったし、小山も東京裁判で初めて事件を知ったと証言。
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