南京裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 20:12 UTC 版)
議論については「南京事件#南京裁判」を参照 阿羅健一は、谷寿夫中将が事件の責任者として裁かれたことについて、谷指揮下の第6師団は城内の数百メートルまで進んだに過ぎず、谷も入城式に参加するために一週間程滞在したのみであるとした。また、谷が裁判にて、事件を知ったのは戦後GHQの「太平洋戰爭史」によってであると述べたとしている。ただし、南京裁判の判決では、まさに事件のおおかたは被告の部隊の駐留期間内に発生し、被告の担当する中華門一帯で放火・殺人・強姦・略奪にあった住民は調査可能な事件が既に459件に達している、証人欧陽都麟が中華門外に死体が散乱していたと証言したとしている。また、第6師団は、捕虜の解放の戦闘詳報が残る一方で、入城しないで向かった南京城近くの長江周辺で軍民を含めた(戦闘の延長と見るかは論議はありうるが)虐殺の記録がある。
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