論争前史
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「鶏頭の十四五本もありぬべし」の記事における「論争前史」の解説
前述のように、句会ではこの句は子規を除く18人の参加者のうちわずか二名が点を入れたのみであり、子規の俳句仲間の間ではほとんど評価されなかった。子規の没後の1909年には高濱虚子、河東碧梧桐によって『子規句集』(俳書堂)が編まれたが、その中にもこの句は選ばれていない。最初にこの句に注目したのは歌人たちであり、まず長塚節が斎藤茂吉に対して「この句がわかる俳人は今は居まい」と語ったという(斎藤茂吉「長塚節氏を思う」)。その後斎藤はこの句を、子規の写生が万葉の時代の純真素朴にまで届いた「芭蕉も蕪村も追随を許さぬ」ほどの傑作として『童馬漫語』(1919年)『正岡子規』(1931年)などで喧伝し、この句が『子規句集』に選ばれなかったことに対して強い不満を示した。しかしその後も虚子は1941年の『子規句集』(岩波文庫)においても「選むところのものは私の見て佳句とするものの外、子規の生活、行動、好尚、其頃の時相を知るに足るもの、併(ならび)に或事によって記念すべき句等」としているにも関わらずこの句を入集させず、「驚くべき頑迷な拒否」を示した。
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論争前史
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南京事件は、戦後1945年から1946年の東京裁判と南京裁判において虐殺事件として取り上げられ、日本に大きな衝撃を与えた。 重光葵は、1952年の著書『昭和の動乱』の中で、「南京に入城した中島師団の暴挙が主となって、南京における日本軍の乱行(南京の強姦)として、世界に宣伝せされた国際問題がその際起こって、日本の名誉は地に墜ちた。」と書いている。 しかし、東京裁判以降、日中戦争を取り上げた研究などでは触れられるものの、世間で注目をあびる問題ではなかった。1960年代には、五島広作(毎日新聞記者)と下野一霍の共著『南京作戦の真相』(東京情報社 1966年)があり、洞富雄の『近代戦史の謎』(人物往来社 1967年)で歴史研究の対象として初めて取り上げられた。 家永三郎『太平洋戦争』(岩波書店 1968年)は、軍人・記者の回想録や洞の著書を引用しながら、南京大虐殺として比較的詳細に記述している。家永は同書で日本軍は「中国人数十万を虐殺した」と書いたものの本格的に検討されなかった。
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