論争史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 16:31 UTC 版)
詳細は「南京事件論争史」を参照 戦後の東京裁判で南京事件は日本人に衝撃を与えたが、以降は事件への関心は薄れた。1971年朝日新聞で本多勝一が『中国の旅』を連載すると、「百人斬り競争」を虚構とする山本七平や鈴木明との間で論争となった。1982年には文部省が「侵略」を「進出」に書き換えたという報道がきっかけで起きた第一次教科書問題で、戦後は事件に触れることがほとんどなかった中国から抗議を受け、日本政府は検定教科書への近隣諸国条項で沈静化を図るなか、田中正明が虚構説を発表し、否定派を代表した。1989年の偕行社編『南京戦史』は「不法殺害とはいえぬが」「捕虜、敗残兵、便衣兵のうち中国人兵士約1万6千、民間人死者15,760人と推定した。 否定派は[誰?]1995年の終戦50年不戦決議阻止運動とも連携し、あらたに東中野修道と佐藤和男らが捕虜殺害を国際法上合法と主張し、吉田裕と論争になった。 中国系アメリカ人の団体がラーベ日記の復刻や、作家のアイリス・チャンを支援し、論争が国際化したが、J.フォーゲルらからチャンの本には間違いが多いと酷評された。英語圏では、政治的利害を排した「中間派」の研究が増えていると中間派は主張する。否定派[誰?]は、後述するように中国側の誇張をプロパガンダとして厳しく批判している。 中国政府は、日本の虐殺肯定派が犠牲者数「20万未満」と考えていることに対して、自分らの考えと全く異なるものだと見做すようになったとされる。日本の側から加害者の意識を強調する松岡環の考え(ただし30万説は支持していない)を中国は支持しているとも言われる。 90年代以降の日本での論争は、「まぼろし派(否定派)」の新たな論客が目立っているとも秦郁彦は考える。一方で、「虚構説」の論理は、破綻しており「あったこと」が正しいことは学問的に決着がついたと肯定派の笠原十九司は主張している。 否定派である[要出典]自民党の戸井田徹、西川京子などの国会議員による「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」は、2007年に南京問題小委員会委員長の衆議院議員の戸井田徹による衆議院内閣委員会での答弁などによって、東中野修道や佐藤和男の説を含めた検討結果を発表し、その結果を日本語、英語の両方を収録する「南京の実相」として出版、米国の議員にも配布し、「南京では日本軍の虐殺はなかった」と主張した。 日中歴史共同研究では、両国の歴史の専門的な研究者による日中共同研究が行われ、2010年1月に報告書が発表された。日本・中国双方とも戦時国際法違反の中国兵・中国民間人への虐殺が一定規模あったことを結論づけた。日本側は規模は諸説ありとし、中国側は大規模でありえたとも記述した。また、虐殺の原因も、日本側は分析・記述(南京事件#生起した原因を参照)した。[要出典] このほか、東史郎の「郵便袋裁判」(東側が敗訴)、百人斬り裁判(原告敗訴)、東中野修道の「夏淑琴による名誉棄損裁判」(東中野側が敗訴)などの裁判もある。 現在[いつ?]も、日本・中国の事件肯定派と日本国内の保守派を中心とする事件否定派との摩擦は頻繁に見られる。このような状況について、日中歴史共同研究に参加した北岡伸一(安倍談話有識者会議座長代理)は、日中歴史共同研究を振り返り、「南京事件について、日本軍の虐殺を認めたのはけしからんという批判がある」が、「虐殺がなかったという説は受け入れられない」とし、「日本人の一部に南京事変は存在しなかったと主張する人たちがいること」も中国側の根強い反日感情の要因だと指摘している。
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