論争全体の理解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
旧民法と明治民法の家族法が大同小異だとしても、八束のスローガンが延期派の決定的勝因だったとすれば、論争の本質はやはり保守対進歩の戦いとも考えられる。 しかし、家族法だけに法典論争を言うのは実態に合わないとして編纂手続の是非や商法・財産法を巡る論争を重視するなら、「民法出でて忠孝亡ぶ」の一言では語り尽くせないことになる。 旧通説は必ずしも前者のような理解を採らず、星野は、八束論文は珍奇の題名が後世に与えたインパクトが大だったに過ぎず、それが旧民法の死命を決したというのは俗説だと主張している(#延期派の勝因)。 論争開始から旧民法廃止までの経緯の概略は次の通り。 時期出来事内閣1889年(明治22年)5月 法学士会意見書により法典論争開始 黒田内閣 10~12月 江木衷「民法草案財産編批評」発表 1890年(明治23年)4月 21日財産法公布、26日商法公布 第1次山縣内閣 10月 家族法公布 11月 帝国議会開会 12月 第1議会で旧商法延期法案可決 1891年(明治24年)2月 第1議会貴族院で「民法及商法ニ関スル建議」可決 4月 穂積八束「国家的民法」発表 8月 穂積八束「民法出テゝ忠孝亡フ」発表 1892年(明治25年)5月 第3議会で旧民商法延期法案可決 第1次松方内閣 11月 延期法公布 第2次伊藤内閣 1894年(明治27年)5月 法典修正のため法典調査会会議開始 1896年(明治29年)3月 第9議会で民法前3編につき「民法中修正案」可決、旧民法財産法廃止 12月 第10議会で残余部分につき再延期法案可決 第2次松方内閣 1897年(明治30年)12月 第11議会に民法中修正案が提出され、衆議院解散により審議未了 1898年(明治31年)6月 第12議会で民法後2編につき「民法中修正案」可決、旧民法全廃 第3次伊藤内閣 以上につき、第1議会で旧民法延期が議決(第3の誤り)、第9議会で明治民法全編が可決したと記述するなど(第12議会の脱落)、学者の不正確な記述が少なくないことが指摘・批判されている(#院内論戦の決着)。
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