廃止までの経緯
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1968年(昭和43年)9月4日の国鉄諮問委員会から提出された意見書により赤字83線に指定された幸袋線は、飯塚市中心部ではなく小竹・直方方面へ路線が延びていたため、地域交通の流動の主要ルートからも外れており、1967年度(昭和42年度)の収支係数は740、つまり100円の収入を得るのに740円かかるという大幅な赤字路線であった。だが、周辺の炭鉱の閉山が相次いだとはいえ、毎日110トン(貨車7両分)の貨物輸送と143人の通勤通学客の利用があった。 しかし、終点の二瀬駅からは嘉穂郡穂波町(現・飯塚市)の日鉄鉱業二瀬炭鉱まで貨物線が延びており、ほぼ線路が飯塚市を分断していることから市の発展を妨げているとされ、飯塚市でも廃止の方向が強まった。そこで国鉄門司鉄道管理局と飯塚市役所の担当者が、貨物輸送に利用している会社や通勤通学者の家を1軒1軒訪問し、廃止の同意を取り付けた。沿線の二瀬・幸袋地区でも廃止のうえ道路を整備してほしいとの声があがっており、反対運動は起こらなかったようである。その後1969年(昭和44年)3月18日に飯塚市議会が幸袋線廃止の意見書を採択、同年12月7日のさよなら列車の運行をもって廃止された。幸袋線は赤字83線の中で最初に廃止された路線となり、この廃止までの動きはその他の路線廃止の取り組みのモデルともなった。
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廃止までの経緯
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当駅の1日あたりの平均乗降人数は開業以来数人だったが、1日2往復という必要最小限の運行が続けられた(南海側も思ったほど赤字にはならなかったという)。その後、和歌山港 - 水軒間にあった踏切の道路幅が狭く、住民から改良を求められたことを契機に廃止案が練られ、和歌山県議会の議決を得て廃止された。 2002年(平成14年)5月には「さよなら水軒駅」イベントが行なわれ、同年4月には難波から水軒まで10000系特急型電車による臨時特急が運転された。同年5月25日の営業最終日は臨時列車が多数運転され、最終列車では乗務員への花束贈呈も行なわれた。
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廃止までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 09:38 UTC 版)
2011年(平成23年)7月30日から、新潟福島豪雨により営業休止し、大白川 - 只見間が復旧した後も、当駅は通過となっていた。2012年(平成24年)9月12日、JR東日本新潟支社は定例会見において、当駅を廃止する方針を表明、2013年(平成25年)1月、只見町側に、同年3月で廃止する意向を伝えた。町、町議会は容認できないと反対の姿勢をとっていた。なお、前述のとおり当駅は仙台支社管轄の駅であった。
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