広島西飛行場廃止までの経緯
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「広島西飛行場」の記事における「広島西飛行場廃止までの経緯」の解説
「太田川大橋#揺れた渡河案」も参照 広島の空の玄関口として活用されてきたが、滑走路長が1,800mしかないため、ボーイング767-300クラスの中型ジェット旅客機しか離着陸できず、大型ジェット旅客機は離着陸できないため、増大する航空需要に応えられないという問題があった。用地上の問題から拡張が困難なこともあって、当空港の機能の大部分を1993年(平成5年)に豊田郡本郷町(現・三原市)に新たに建設された新空港(現・広島空港)に移転、その後は広島県管理のその他飛行場である「広島西飛行場」として運営されていた。 広島西飛行場は県営空港であると共に、広島市に所在する唯一の空港であることから、空港管理運営費の赤字分、整備事業費、環境対策費は、広島県と広島市で折半している状況であった。広島市では搭乗率の目標値を掲げて飛行場の利用促進を市の施策目標として掲げていたが、小型プロペラ機であるサーブ340Bによる2路線でも搭乗率は50 %台と、芳しいとは言えない状況であった。 また、飛行場の北側で滑走路の延長線上を東西に横断する広島南道路の建設方法を巡って、飛行場の機能維持を求めてトンネル方式を主張する広島市と工費縮減の観点から橋梁方式を主張する広島県との間で対立があったが、2004年5月31日に開催された藤田雄山広島県知事と秋葉忠利広島市長とのトップ会談によって橋梁方式での建設に合意し、滑走路北端部を340 m南側に移動する必要があることから、飛行場機能の縮小が避けられない状況となっていた。広島市は、リージョナルジェットによる羽田空港への直行便復活を模索していたが、空港の管理者が広島県ということもあり、具体的な方向性には乏しい状況だった。 2007年(平成19年)10月17日、藤田広島県知事は定例記者会見での質疑応答の中で「県としては西飛行場そのものをもはや必要としていない」、「安佐南のほうの方でしたら広島空港に行ったほうが早い。西飛行場のほうが便利だっていう方はごく一部」と、空港機能を広島空港に集約し、西飛行場を廃止させたい意向を表明する。これにより、広島西飛行場の存廃問題が一躍クローズアップされることとなった(ただし、航空路線を広島空港に集約させたいとの広島県の意向は、この会見より前からの基本的スタンスであった)。 ちなみに、2005(平成17)年度の旅客数は67,059人、2008(平成20)年度の旅客数は56,453人であった。 2009年(平成21年)9月16日付の読売新聞は、ジェイエアが広島西飛行場を含む国内7空港からの撤退を決めたと報じた(実際に撤退を発表したのは2010年〈平成22年〉4月28日)。定期路線が無くなった時点での運営からの撤退を検討していた広島県は2009年(平成21年)10月22日、広島西飛行場の管理運営から撤退する方針を固め、今後、広島市が存続を希望するなら単独で赤字負担をするよう広島市に申し入れた。 広島市は単独負担を拒否する構えであったが、2010年(平成22年)1月27日に行われた藤田の後任である湯崎英彦広島県知事と秋葉広島市長との会談で、知事は県市共同で運営するヘリポートに転換するよう提案した。市長は東京(羽田)線誘致を視野に入れ、市営化かヘリポート化かを2010(平成22)年度中に判断することで合意する。広島市では「広島西飛行場あり方検討委員会」を設置して市営空港化の検討を行い、2010年12月27日秋葉市長は湯崎知事との会談で市営空港として運営する旨の方針を表明し、翌年2月市議会に「広島シティ空港条例制定案」を提出したが、否決された。湯崎知事は3月8日の記者会見で「本会議で市営化を否決された場合は、市の重大な意思決定だと受け止める」として西飛行場を廃港し、市に提案していた県市共同運営のヘリポートに転換する手続きを早期に進めるとして、3月14日には「広島県広島西飛行場条例を廃止する条例」を公布した。秋葉の後任として当選した松井一實は2011年(平成23年)5月27日の湯崎知事との会談で市営化断念とヘリポート化受け入れを表明し、この時点で2012年末での廃港・ヘリポート化が事実上決着した。
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