広島藩政下での治水・利水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 08:32 UTC 版)
広島藩は木綿等の特産物を有していたが、鉄も有力な特産物であった。太田川上流部は砂鉄の有力な生産地で、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}「鉄山役高1万3千石」[要出典]として藩政初期の貴重な財源であった。当時の砂鉄採取は「鉄穴(かんな)流し」と呼ばれる古典的方式であった。だがこの方式は下流に大量の土砂を排出するため堆砂が進行し水害の遠因ともなった。 広島藩も太田川の治水、特に城下町からの洪水防御には注力し「石枠」・「水制」といった護岸工事を元安川沿岸に建設した。特に旧太田川(本川)・京橋川分流点に建設された「一本木鼻の水制」は大規模なもので、現在でも保存されている。また、デルタ地帯の干拓は新田開発の奨励に伴い更に進められ、1785年(享保20年)には干拓に伴い671haの新田検地が行われている。こうしたデルタ地帯の開拓は明治期まで進み、太田川・元安川・京橋川・猿猴川・天満川・山手川・福島川の7河川が形成された。 こうした新田開発に伴い灌漑用水の整備も行われるようになった。安北郡小田庄庄屋であった丸子市郎兵衛は太田川から用水を開鑿して安定した水運用を計画した。その子・丸子市兵衛は父の計画を実行に移す為藩庁に許可願いを申請したが認可が下りず、7年後の1655年(明暦元年)より開鑿が始まった。口田村の友竹瀬尻山地点(現・広島市安佐北区)に高瀬井堰を設け、そこより幅2m・全長42kmに及ぶ用水路を建設した。この小田定用水は3年の歳月を掛けて1657年(明暦3年)に完成し流域を潤したが市兵衛は死を覚悟しながら事業を進め、弘住神社境内に首棚を設置し事業失敗時には自刎した首を乗せるように命じたという。 一方1767年(享保3年)には西原村の庄屋である嘉兵衛が用水路計画を立ち上げ、翌1768年(享保4年)4月より工事を開始した。この八木用水は実に25日間という極めて短時間で開鑿が為されたものである。現在は施設が改廃された部分があるものの、両用水路とも現役で供用されている。
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