広島藩出仕
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慶応元年(1865年)藩校学問所(現修道中学校・修道高等学校)句読師となった。藩主浅野長勲が学問所に国学者野々口隆正を招き、『古事記』講義を行った際、その筆記を命じられた。 慶応3年(1867年)9月、湯川貫一と共に仏護寺に同仇隊を結成し、学問所副奉行塚本小八郎を隊長に迎えた。慶応3年(1867年)10月15日藩主護衛のため上京を命じられ、京都では兵部卿山階宮晃親王の下で兵部省権判事を務め、明治元年(1868年)2月堺事件の事後処理に随行しフランス軍艦に乗船するなどし、明治元年(1868年)4月17日帰藩した。 明治4年(1871年)学問所助教となり、明治4年(1871年)冬、山田十竹が広島最初の新聞『日注雑記』を発刊すると、木原章六等とこれを助け、明治5年(1872年)12月10日広島県新聞局に就職した。
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