広島総監督/顧問時代
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一方広島では、1996年ごろからJリーグバブルがはじけ、チームは経営不振となった。チーム存続のため、主力の減俸や高木琢也や森保一などの主力放出を断行し、他チームの戦力外選手を安く雇うなどをしながらも、若手を育て経営安定に努めた。また監督は選手育成型の外国人監督を必ず選び、次に繋げるため日本人コーチを加える編成を作ることをモットーとした。 また、Jリーグ新規参入クラブとして活動しだした、大分トリニータや愛媛FCの創設にアドバイザーとして参加し、自身の持つノウハウを伝授し、出番の少ない選手を貸し出した。 2002年に監督・外国人選手・主力の怪我人を埋める補強がすべてうまくいかずチームはJ2降格、シーズン後に責任を取るかたちで総監督を辞任した。翌2003年から広島顧問(ゼネラルアドバイザー)に就任。同時期に広島都市圏でのサッカー専用スタジアム建設を目指す「スタジアム推進プロジェクト」の事務局長し、広島市民球場跡地など候補を絞りプロジェクトを進めていたが、結果として結びつかなかった。2007年1月31日をもって広島顧問を退任。
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