揺れた渡河案
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 16:59 UTC 版)
「広島西飛行場#飛行場の存廃問題」も参照 そもそもここを渡河する計画は1967年(昭和42年)、”都市計画道路観音井口線”整備が決定したことから始まる。この中で渡河案は「橋梁」と決められた。1974年(昭和49年)、西部開発事業が具体化したことを機に観音井口線の車線数を8としすべて「沈埋トンネル」にて渡河すると決められた。 1997年(平成9年)、広島南道路の都市計画決定、同年に県と市の共同出資により広島高速道路公社設立、以降国・市そして公社が主体となって広島南道路建設計画は進んだ。 観音井口線8車線のうち、4車線が広島南道路として事業計画され、当初は沈埋トンネル案としていた。ただ経済性・施工性の問題から橋梁案も平行して考えられており、1999年(平成11年)、公社に出資している県は総合交通計画にて経済性の優位を示し、以降橋梁案を第一として主張した。 これに、広島南道路のすぐそばにある飛行場の存在が影響した。広島空港建設が決定して以降、旧広島空港(広島西飛行場)の今後について論議が交わされ、1993年(平成5年)から県が管理するコミューター飛行場として存続が決定したが、広島南道路を橋梁とした場合今後も飛行場として活用するには滑走路を南側つまり広島湾へ”沖出す”必要があった。空港を管理する県は水質環境や漁場であることなどを勘案し沖出しに消極的だったため、飛行場を今後も活用していく方針だった市は機能維持を理由に反発し、沈埋トンネル案を主張した。以降両者の主張は覆らず平行線のままだった。 2004年(平成16年)、県側が主張してきた橋梁案を市が受け入れ正式決定し、2013年(平成25年)完成を目指した。この橋梁案に決定した後に都市計画変更、以降市道として整備することになった。 合わせて、2004年に滑走路沖出しを市の事業として進められることが決められたが、のち廃港が決まったため計画自体なくなり、飛行場は現在広島ヘリポートとして存続している。またこの件を含めた県と市の対立は当時の藤田雄山県知事と秋葉忠利市長の関係悪化に繋がり、後の広島・長崎オリンピック構想などの諸問題でも意見相違が相次いだ。
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