廃止への道程
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「首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑」の記事における「廃止への道程」の解説
カトリック陰謀事件のもう一人の無辜の犠牲者であったアーマー大司教(英語版)のオリバー・プランケット(英語版)は、1681年7月にタイバーン処刑場で首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処された。死刑執行人は、プランケットの身体の一部を焼かないよう買収されており、その頭部は現在、ドロヘダのセント・ピーターズ教会(英語版)に展示されている。1745年のジャコバイト蜂起に関与して捕らえられたフランシス・タウネリー(英語版)と他数名のジャコバイトの将校たちは処刑されたが、この頃までに罪人たちにどこまでの苦痛を味わせるかは処刑人たちの裁量に委ねられており、彼らは内臓抉りの前には既に息の根を止められていた。1781年に処刑されたフランスのスパイ、フランソワ・アンリ・ドゥ・ラ・モット(英語版)の場合は、心臓が取り出され焼かれる前に、約1時間にわたって絞首刑に処され、また翌年のデビッド・タイリー(David Tyrie)はポーツマスで首吊り・斬首・四つ裂きの刑に処された。彼の遺体の一部は2万人の観衆の奪い合いになり、彼の手足や指を手に入れて自慢する者もいた。1803年、ジョージ3世の暗殺などを計画(デスパード陰謀事件(英語版))したとされるエドワード・デスパード(英語版)と彼の共犯者6名が首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処せられた。彼らは、ホースモンガー・レーン監獄(英語版)で絞首及び斬首刑に処される前に、馬に取り付けられたそりに乗せられ、監獄の庭を周回する形式的な形で引き回される罰を受けた。彼らの処刑には、約2万人の観衆が集まった。デスパードの演説後の様子を記した同時代の記録が残っている。 この精力的かつ扇情的な訴えに、熱狂的な称賛が続いたため、執行官は聖職者に退出を命じ、デスパード大佐にはそれ以上の発言を禁じた。その後、キャップが目深に被せられ、その間に大佐が左耳の下に結び目を固定するのが確認でき、9時7分前に合図が送られると、(絞首台の足場の)台が落ち、全員が永遠の中に送り込まれた。大佐は事前に準備していたおかげであまり苦しんでいないように見えたし、全体の中で最もふざけた態度であったブロートンを除けば、他の者たちもそれほど苦しんでいないようだった。兵士のウッドは非常に苦しんで死んだ。処刑人は下に潜ると彼らの足を引っ張り続けた。マクナマラとウッドの指からは、吊るされている間に数滴の血が流れ落ちた。37分間の絞首刑の後、9時30分に大佐の遺体は切り落とされ、上着と腰巻を脱がされておがくずの上に寝かされ、頭はブロックの上に寝かされた状態だった。外科医が一般的な解剖用ナイフで頭部を切り取ろうとしたが狙っていた間接を外して上手くいかず、処刑人が頭を両手で挟みこんで何度も捻じるようにして苦労して胴体から切り離していた。そして、その首は死刑執行人によって掲げられ、彼は「見よ! 反逆者エドワード・マーカス・デスパードの首を!」と叫んだ。他の死刑囚たちにも同様の儀式が行われた。そして、10時までにすべてが終了した。 — The New Wonderful Museum, and Extraordinary Magazine(1804),pp.889–897 1779年のイザベラ・コンドンと1786年のフィービー・ハリスの火炙り刑では立ち合いの執行官に支払われる経費が膨らんでおり、サイモン・デヴェローの見解では彼らはこのような見世物に参加したくはなかったのではないか、と指摘している。ハリスの一件をきっかけとしてウィリアム・ウィルバーフォースは内臓抉りの刑の廃止法案を提出したが、この法案の中には殺人犯以外の罪人に対する内臓抉りを許可するものも含まれていたため、貴族院にて否決された。1789年に贋金造りで火刑に処されたキャサリン・マーフィー(英語版)の一件では、ベンジャミン・ハメットが議会で非難を行い、「ノルマン人による政策の野蛮な残滓」の1つと呼んだ。女性への火刑に嫌悪感が広まる中で、議会は1790年に反逆法(英語版)を制定し、反逆罪を犯した女性は火刑ではなく絞首刑となった。その後、1814年には法律改革者のサミュエル・ロミリー(英語版)が主導した反逆法(英語版)が制定された。ロミリーは、友人のジェレミ・ベンサムの影響を受けており、懲罰的な刑法は犯罪行為を改めるために役立つべきであるが、実際のところ、イングランドの法律の厳しさは抑止力になるどころか、犯罪を増加させる原因になっていると長年主張していた。1806年にクイーンズボローの下院議員に任命された彼は、「血で書かれた、血気盛んで野蛮な刑法」の改善を決意した。彼は窃盗や浮浪行為に対する死刑を廃止した。そして1814年反逆法において反逆罪を犯した者の刑罰を「死ぬまで絞首刑とし、その遺体を国王が自由に処分できる」ことを提案した。しかし、これでは殺人罪の刑罰よりも軽くなってしまうと指摘されると「適切な罰と適切な名誉刑として」死体の斬首を行うことにロミリーは同意した。この妥協案の規定が実際に行われたのが1817年にダービー監獄(英語版)で処刑された3人のうちの1人、ペントリッチ蜂起(英語版)の百人隊の長ジェレマイア・ブランドレス(英語版)である。エドワード・デスパードらの過去例と同様に3人はソリで絞首台への引き回しを受け、絞首刑として1時間ほど吊られた後、摂政殿下(後のジョージ4世)の強い要望により、斧で首を落とされた。しかし、首切りを任された地元鉱夫の経験は浅く、最初の2撃は失敗に終わり、最後はナイフによって作業を終えた。彼が最初の首を持ち上げ、慣例的なアナウンスをすると、群集は恐怖のあまり逃げ出してしまった。1820年に社会不安が高まる中で起きたカトー通りの陰謀(英語版)とそれに関わった5人の男たちがニューゲート監獄で絞首及び斬首刑に処された時は、異なる反応が見られた。斬首は外科医によって行われたが、いつもの慣例的なアナウンスの後、群集は激しい怒りを見せ、これは死刑執行人が刑務所の壁の中で身を守らなければならないほどだった。この事件が、この刑罰が適用された最後の犯罪となった。 イングランドの死刑法の改革は19世紀に入ってからも続き、初代ラッセル伯爵ジョン・ラッセルなどの政治家は残っていた死刑犯罪の多くを法令集から削除しようとした。ロバート・ピールは法の執行を改善するために、1828年の対人犯罪法(英語版)によって軽微な反逆罪を廃止し、殺人罪との区別をなくした。王立死刑委員会(英語版)(Royal Commission on Capital Punishment)は、ほとんどの反逆行為に対する刑罰を懲役刑に限定した「より慈悲深い」1848年反逆重罪法(英語版)を引用して、反逆罪の規定を変更しないよう勧告した。この報告書では「反乱、暗殺、その他の暴力…… 我々は極刑を維持すべきだと考える」と提言していたが、直近では(またこれが最後だった)首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑が下された1839年11月のチャーティストによるニューポート蜂起(英語版)の受刑者たちは死刑の代わりに流刑となっていた。また同報告書では産業革命による繁栄の高まりによって死刑執行に対する国民の雰囲気が変わってきていることが強調されていた。内務大臣スペンサー・ホレーショ・ウォルポールは委員会に対し、死刑執行は「非常に士気を低下させるものになっており、良い効果をもたらすどころか、犯罪者に犯行を思いとどませる効果はなく、むしろ大衆の精神を残忍にする傾向がある」と指摘した。委員会は「濫用を防ぎ、法律が遵守されていることを国民に納得させるために必要と考えられる規制の下で」死刑執行は刑務所の壁の向こう側で、公衆の目に触れないように非公開で行われるべきだと提言した。殺人犯を公開処刑にする慣例は2年後の1868年に内務大臣ゲイソン・ハーディによる死刑改正法(英語版)によって廃止されたが、これは反逆者には適用されなかった。死刑を完全に廃止する修正案は法案の3回目の読会の前に提案されたが、127票対23票で否決された。 1870年没収法(英語版)によって首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑は廃止された。これは自由党の政治家チャールズ・フォースター(英語版)が1864年以来の2度目の試みとして、残された家族が困窮することを防ぐために重犯罪者の土地と財産を没収することを廃止するために提案したものであった。この法律によって反逆罪の刑罰は絞首刑のみに制限されたが、1814年に制定された法律によって国王の権限により絞首刑を斬首刑に代える余地は残っていた。とはいえ、イギリス国内で最後に斬首されたのは1747年の第11代ラヴァト卿サイモン・フレイザーであり、1973年に正式に斬首刑は廃止された。1998年の犯罪・無秩序法(英語版)により反逆罪の死刑が廃止され、これによりイギリスは1999年に欧州人権条約の第6議定書を批准することが可能となった。
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