廃止の経緯
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「名古屋市交通局協力会東山公園モノレール」の記事における「廃止の経緯」の解説
当初は順調な滑り出しであったモノレールも、時が進むにつれて次第に「目新しさ」が薄れていき、単なる輸送手段としか認識されなくなっていった。このため、建設時には余り目立たなかった欠点が徐々にクローズアップされていき、それに連れて乗客も急速に減少した。結局、黒字を出したのは当初2年に留まり、廃止前には累積赤字が約3,500万円にまで膨らんでいた。 廃線の理由としては以下が挙げられる。 動物園駅の立地が現在のキリン舎辺りと正門入口からはかなり遠く、しかも相当数の階段を登った森蔭の目立たない所にあった点 植物園駅も実際は動物園内にあり、植物園のメイン施設である大温室へはそこから連絡通路(歩道橋)を渡って行く必要があった点 就役10年で大規模な更新修繕が必要となったが、多額の費用を掛けても収支が改善する見込みが立たなかった点 また、廃止(運行休止)に至る直接的な要因としては、モノレールを運転する運転士が年齢等により相次いで退職となり、赤字路線であるモノレール専用の乗務員養成が難しかったことも挙げられる。 純粋な輸送手段としてみると中途半端な路線が災いし、1974年(昭和49年)6月1日に運行休止(休線)、同年12月18日に廃線となった。車両は休止時には車庫を兼ねていた旧動物園駅に留置されていたが、展示に適さない場所であったため、旧植物園駅まで移動させ、現在でも旧植物園駅(売店直上)に、当時の車両が軌道とともに留置(静態保存)されている。 このモノレールの廃止後の1987年(昭和62年)に動物園の開園50周年を記念し、遊戯施設として動物園(正門前)と植物園を結んで、湖畔を周り一方向の環状運転をする跨座式モノレールの「スカイビュートレイン」が完成した。この建設に際し、一部では初代モノレールや湖畔電車の跡地も活用されている。
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廃止の経緯
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花月園競輪場は神奈川県・横浜市・横須賀市の各自治体が個別に主催していたが、平成期に入ってから売り上げの落ち込みが顕著となったことから、1998年には各自治体が神奈川県競輪組合を組織して効率化を図ってきた。しかし数年来の花月園競輪における競輪事業の経営状況悪化から、2009年4月より神奈川県の外部組織にあたる『神奈川県競輪組合あり方検討委員会』が設置され、花月園での競輪開催の存廃を検討した。 その結果、県競輪組合と花月園観光が共に数十億円の累積赤字を抱えていた上、地理的な要因などで施設改善などの収益増加策を立てられず、さらに花月園観光が当時の契約条件における業務包括受託の更新に難色を示していることなどが報告された。同年9月15日の会合において委員会は「黒字転換の見込みが立たない状況では、花月園競輪での事業存続の理由が見えない」という報告書をまとめ、9月18日に主催自治体および県競輪組合に提出した。 このため、神奈川県競輪組合以外が主催運営の引き継ぎを名乗り出ない場合は花月園競輪場が廃止される状況に陥り、12月に神奈川県競輪組合が2009年度の最終開催日となる2010年3月31日をもって開催から撤退することを決定したため、花月園競輪場の廃止が決まった。
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廃止の経緯
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2007年8月24日から、トランセカードを導入していた代官山循環線においてPASMOを導入した(ただし「バス利用特典サービス」は適用されない)。PASMOへの対応に伴いトランセカードは利用停止となり、代替措置として磁気カード式の「代官山循環線専用バスカード」の発行を開始した。トランセカードの残高については、同月17日から払い戻しまたは磁気カードへの交換を渋谷駅西口の東急バス渋谷案内所にて行う。 2015年3月31日、磁気カード式の「代官山循環線専用カード」販売終了。同時に割引制度が変更となり、複数人数割引(2人目以降大人100円)、日曜祝祭日割引が廃止された。磁気カードの利用期限は同年9月30日まで、無手数料での払い戻しは同年10月1日から2016年3月31日まで東急バス渋谷案内所・東急バス下馬営業所にて行う。代替措置として同年4月1日より紙式の「代官山循環線専用回数券」を発売、販売場所は東急バス下馬営業所・東急バス渋谷案内所のみで、車内での販売はない。また東急バスIC一日乗車券(PASMO・Suicaに書き込むタイプ)が利用可能になった。
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廃止の経緯
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一宮市長は一宮競輪場を2014年3月末で廃止する方針であることを発表した。これは本場の売上高の減少傾向に歯止めがかからない上、経費の増加も予想されていたため、発表の時点で競輪事業から撤退できれば廃止に関わる費用を問題なく捻出できるとの考え方に拠る。 これにより廃止の手続きが一宮市議会に諮られることになり、その後本場開催からは撤退するが場外車券売場として存続する方針が取られ、同年12月19日の市議会において今年度限りで事業を廃止するための条例案が可決され、廃止が正式に決定する。 そして2014年3月16日に一宮競輪場での最終開催が終了し、中部地区内の競輪場においては初の開催廃止となった。 なお一宮を対象とした重勝式のKドリームについても販売終了となり、最終開催日のみ一つのレースが外れになっても他のレースが全て的中していれば、的中者とみなす特例措置が実施されたが、的中者の出なかったBigDreamの17250円およびK5の24750円のキャリーオーバーが一宮市の収益となった。
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廃止の経緯
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2006年9月に観音寺市は赤字決算が続くとして開催日数の年間約70日から約40日以下の削減と、日本自転車振興会(現在のJKA)への交付金を5年間延納する「特例」の適用を経済産業省等と協議することを表明し、これが受け入れられ2007年10月24日に当年度を含め年間開催日数を70日から37日に削減した(他場の場外発売はこれまで通り実施)。 これにより債務の削減を図ろうとしたが収益の回復が芳しくない状況の上、2012年度にはJKAに対する交付金の支払猶予などの「特例」が期限を迎えることから、2011年9月27日に観音寺市議会は「競輪事業の本場からの撤退を求める決議案」という観音寺競輪場からの主催撤退案を可決した。これについて市長の白川晴司は競輪場を場外車券売場として維持する方針を表明し、11月9日に2012年3月末をもって観音寺競輪場での本場開催を廃止することを正式に発表した。2012年3月5日から7日に最後の本場開催が行われ、場外車券発売が終了する3月30日をもって競輪場としては閉場となった。 競走路については暫くの間自転車競技場として残されたが、のち解体、撤去された。その他の施設についても、場外車券売場として使用される建物を除き撤去された。跡地の活用については未定だが、第二駐車場跡地には学校給食センターが設置されることが決定している。
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廃止の経緯
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2014年(平成26年)8月、施行者である千葉県および船橋市が「売上減少状況が続く中で、施設改修費用を捻出するのは困難」という理由から、2016年(平成28年)3月31日をもって廃止する意向が報道され、同月12日に施行者側が正式に廃止の方針を発表、オートレースを統括するJKAも廃止について公表した。また、ワンダーベイシティサザンの住民による船橋オートレース場への騒音による損害賠償請求や船橋市への苦情による影響もあった。 選手会船橋支部長の永井大介は「選手会から相応の支援金を捻出するなど、何とか存続させたいと頑張っているときに廃止決定なんて、とても納得できるものではありません」と怒りを露わにし、全日本オートレース選手会を中心に存続を求める署名活動を全国で行った。こうして集められた12万名の署名は船橋市および千葉県へ提出された。また2015年(平成27年)4月26日(第18回統一地方選挙)に実施された船橋市議会議員選挙に現役オートレース選手の梅内幹雄が当選、議会でオートレース場の存続を訴えたが、両施行者の方針を転換させるまでには至らず、JKAは2016年(平成28年)1月8日に船橋オートレース場の廃止に関する対応などを公表した。全日本オートレース選手会、同船橋支部は同年1月24日にJKAの方針を受け入れることを表明し、これを受けて両施行者は同年2月2日、正式に廃止を発表した。同年3月21日のプレミアムカップ最終日が最後の船橋オートレース開催となるが、存続派ファンの反発は燻り続けており、表彰式では森田健作知事や松戸徹市長へ「必要な投資がされなかったからだ!」、「存続しろ!」、「帰れ!」等の罵声や怒号が飛んだ。 同月30日に伊勢崎オートレース場で開催されていたGIIレジェンドカップの場外発売をもって車券販売の営業を終了、翌31日、65年5ヶ月の歴史に幕を閉じた。
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廃止の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 10:09 UTC 版)
大津びわこ競輪場は、競輪事業収入の70%以上を占める高松宮記念杯を毎年開催しており、近年はその収益で赤字の開催分を補填する運営を行っているが、2004年から売上減少のため年間収支が連続して赤字となっており、その累積額が18億円までに増加していた。 2010年6月2日、主催者である大津市の目片信市長は定例会見で、「今年(2010年)の売り上げ額が(前年比10%減となる)110億円を下回った場合、9月の定例市議会で事業廃止について申し上げなければならない」と大津びわこ競輪場の存廃の協議に入ることを表明したが、2010年の高松宮記念杯の売り上げは、目標の133億円には遠く及ばない107億4605万1900円(チャリロトを含む金額)に留まり、目片市長は2011年以降の高松宮記念杯の開催返上も視野に入れることも明かした。 2010年9月17日、同日付京都新聞は、大津市が2011年3月をもって全ての競輪事業を終了し、大津びわこ競輪場を廃止する方針であることを報じた。大津市も報道を認め、本場での最終開催は2011年3月11日から13日までのFII競走「びわこファイナルカップ」となり、場外発売も同月29日をもって終了し、大津びわこ競輪場は閉鎖されることになった。 しかし最終開催の初日に東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生したため、その影響により2日目以降が中止となり、以降の開催および場外発売も行われなかったため、事実上2011年3月11日をもって閉場となった。
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