廃止に至る経緯(新十津川駅 - 石狩沼田間)
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「札沼線」の記事における「廃止に至る経緯(新十津川駅 - 石狩沼田間)」の解説
太平洋戦争中に不要不急線として休止されていた石狩当別駅 - 石狩沼田駅間のうち、浦臼駅 - 石狩沼田駅間は、再開後も利用が振るわず、1963年(昭和38年)6月10日時点で営業係数は292となっていた。 特に新十津川駅以北は、自動車交通の発達や並行する国道275号の完全舗装などの道路整備、沿線の人口減少により年ごとに利用の減少が進み、同区間は営業末期の1972年(昭和47年)に発表された輸送実績では、乗車人員498人、貨物発送トン数58トンと、いずれも1960年(昭和35年)比でそれぞれ30%、62%に落ち込み、収支係数は1500にのぼった。これにより末期の同区間の運転本数は、旅客5往復/日、貨物は3日に1本程度にまで減少した。 1968年(昭和43年)に国鉄諮問委員会は「『ローカル線の輸送をいかにするか』についての意見書」中で、使命を終えた国鉄の地方線をバス転換とする方針を打ち出し、いわゆる「赤字83線」を発表し、札沼線新十津川駅 - 石狩沼田駅間もこれに含まれた。 これを受け国鉄北海道総局では1971年(昭和46年)8月2日に新十津川駅 - 石狩沼田駅間沿線4町(新十津川町、雨竜町、北竜町、沼田町)に廃止を提案し、管轄する旭川鉄道管理局と併せて沿線住民と800回にのぼる話し合いを行った。これにより、1972年(昭和47年)3月16日の沼田町を最後に沿線4町は廃止に同意した。その後、同年3月23日に旭川鉄道管理局から国鉄本社に廃止が上申され、6月18日の運転をもって新十津川駅 - 石狩沼田駅間の運輸営業が廃止された。 「赤字83線」の廃止は道内では根北線に次ぐ2番目であり、廃止区間延長34.9kmは「赤字83線」における1区間の廃止距離としては全国で最長であった。また、「赤字83線」の取り組みそれ自体による指定線区の国鉄路線の廃止はこの区間が最後となった。
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廃止に至る経緯
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「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」の記事における「廃止に至る経緯」の解説
「新型コロナウイルス感染症対策分科会」も参照 新型コロナウイルス対策担当の西村康稔経済再生担当大臣は、6月24日の記者会見で、専門家会議を廃止し、メンバーを拡充するなどして「新型コロナウイルス感染症対策分科会」を改めて設置することを発表し、6月28日の記者会見で、専門家会議は分科会へ発展的に移行すると説明した。分科会とは別に、厚生労働省が専門家の意見を聴く助言組織を近く再開することも報じられた。7月3日、新型コロナウイルス感染症対策本部が持ち回りで開催されて専門家会議を廃止することが正式に決定し、新型インフルエンザ等対策有識者会議の下に分科会が設置された。 専門家会議の廃止をめぐって、西村大臣の6月24日の記者会見が、専門家会議の記者会見と同時刻に行われ、尾身が廃止を「知らない」と語ったことなどから物議を醸し、のちに西村大臣は「私が「廃止」と強く言い過ぎ、専門家会議の皆さんを排除するように取られてしまった。反省している」と釈明に追われた。国会で立憲民主党の阿部知子衆議院議員が「専門家会議から、もっと発言してもらいたかった」と述べるほか、与党からも公明党の斉藤鉄夫幹事長が「専門家会議に対する国民の信頼や期待を裏切ったのではないか」と説明不足に苦言を呈した。
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