ジャコバイト蜂起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/04 20:52 UTC 版)
ジャコバイト蜂起(ジャコバイトほうき、英語: Jacobite risings)、またはジャコバイト反乱(ジャコバイトはんらん、英: Jacobite rebellions)、イギリス継承戦争(イギリスけいしょうせんそう、英: War of the British Succession[1])は1688年から1746年まで、グレートブリテン王国とアイルランド王国で生起した一連の蜂起、反乱、そして戦争である。蜂起はイギリスにおける最後のカトリック国王であるイングランド王ジェームズ2世(スコットランド王としてはジェームズ7世)のグレートブリテン王復位を目指しており、彼の死後はその子孫の復位を目指した。ジェームズ2世は名誉革命で議会によって追放されており、以降フランスで復位の機会をうかがった。蜂起の名前はジャコバイティズムを起源としており、「ジャコバイティズム」はジェームズのラテン語読みであるJacobusを起源としている。
「ジャコバイト蜂起」は下記のうち特定の蜂起を指す場合もある。
- 1689年ジャコバイト蜂起
- ウィリアマイト戦争 - アイルランドで王位を奪回する試み
- ウィリアム3世暗殺未遂事件
- フランスによるイギリス侵攻計画 (1708年) - ジャコバイトの支援あり
- 1715年ジャコバイト蜂起
- 1719年ジャコバイト蜂起
- フランスによるイギリス侵攻計画 (1744年) - ジャコバイトの支援あり
- 1745年ジャコバイト蜂起
- フランスによるイギリス侵攻計画 (1759年) - ジャコバイトの支援あり
また、下記のように計画されたものの実行に至らなかったものもある。
脚注
- ^ Black, Jeremy (2015). A Short History of Britain (英語). London: Bloomsbury Publishing. pp. 49–50. ISBN 9781472586681. 2016年12月23日閲覧。
ジャコバイト蜂起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/22 21:32 UTC 版)
「1689年ジャコバイト蜂起」の記事における「ジャコバイト蜂起」の解説
スコットランド北東部では監督制への支持が高く、ジェームズ7世によりダンディー子爵に叙されたジョン・グラハム・オブ・クラーヴァーハウス率いるジャコバイト派の中心地となった。ダンディーはジェームズ7世のためにエディンバラ城を保持する軍勢を徴集、続いて主にハイランダーで構成された軍勢を編成した。ダンディーの軍勢はパースシャー(英語版)でヒュー・マッケイ(英語版)将軍率いる新政府軍に遭遇したが、1689年7月27日のキリークランキーの戦い(英語版)で新政府軍を撃破した。ジャコバイト側でもダンディー子爵自身が戦死するなど多くの損害を出した。この勝利によりジャコバイト反乱軍の望みが上がったが、ジャコバイトの軍勢5千は8月21日のダンケルドの戦い(英語版)でキャメロニアン連隊(英語版)の1,200人(盟約派のリチャード・キャメロン(英語版)の支持者)に撃破された。戦闘の最中に政府軍の指揮官ウィリアム・クリーランド(英語版)が戦死したため、ジョージ・マンロー・オブ・オーチンボウィー(英語版)大尉が引き継ぎ、政府軍を勝利に導いた。ダンケルドの戦いで敗北したことで、ジャコバイト蜂起は終息した。
※この「ジャコバイト蜂起」の解説は、「1689年ジャコバイト蜂起」の解説の一部です。
「ジャコバイト蜂起」を含む「1689年ジャコバイト蜂起」の記事については、「1689年ジャコバイト蜂起」の概要を参照ください。
- ジャコバイト蜂起のページへのリンク