プレストンの戦い
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- プレストンの戦い (1648年) - イングランド内戦(第二次イングランド内戦)の戦い
- プレストンの戦い (1715年) - 1715年ジャコバイト蜂起の戦い
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プレストンの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/27 10:18 UTC 版)
「プレストンの戦い (1648年)」の記事における「プレストンの戦い」の解説
スコットランド軍は4月にイングランド北部の都市ベリックとカーライルを占領、7月に南下してイングランド西部を進み、8月中頃に北西部のランカシャーへ侵入しプレストンも占領した。イングランド王党派とアイルランドの部隊も加え総勢2万人に達したスコットランド軍はクロムウェル軍の2倍になり、戦況はスコットランド軍が優勢だった。 ところが、ここでハミルトン公は失策を犯した。彼は麾下の軍勢を各地へ分散、兵数を減らしてしまったのである。歩兵10,000人と騎兵1,150人の本隊はプレストン市内に、ジョージ・モンロー指揮下のアイルランド部隊3,000人はプレストン北方50kmのカークビー・ロンズデール(英語版)に、マーマデューク・ラングデール男爵(英語版)の王党派部隊はプレストン東方に、ミドルトン伯爵(英語版)ジョン・ミドルトン(英語版)のスコットランド騎兵部隊は南方24kmのウィガンに配置した。このため軍勢は南北74kmに長く伸びて分散、数の優位を生かせなくなった。 クロムウェルは好機を見逃さず、横から奇襲をかけ中央突破、敵を南北に分断する戦術を実行した。8月17日払暁、彼は東からラングデール隊を襲撃しプレストンへ追いやり、ハミルトン公の歩兵部隊も壊滅させプレストンを制圧した。作戦は図に当たりスコットランド軍は分断され、ハミルトン公は南へ逃げてミドルトン伯の部隊と合流、ウィガンを通過してウォリントン目指して逃走、クロムウェルは翌18日にプレストンに守備隊を残しハミルトン公追撃のため南下した。やがて19日にウォリントン近郊で敵軍を捕捉、白兵戦を挑み1,000人を討ち取り200人を捕虜にした。ハミルトン公は騎兵隊を率いて尚も南へ逃れたが、6日後の25日にランバートの騎兵隊に追いつかれ降伏した。
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