内戦活躍と政治勢力化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/26 02:53 UTC 版)
「ニューモデル軍」の記事における「内戦活躍と政治勢力化」の解説
1645年2月から始まったニューモデル軍の編成は遅れ、王党派との対決は6月14日のネイズビーの戦いまでずれ込んだ。開戦当初は苦戦したが、戦いはフェアファクス・クロムウェルら指揮官達の奮戦でニューモデル軍の大勝利に終わった。戦後の掃討作戦も順調に進み、1646年に第一次内戦は議会派の勝利に終わり、勝利に貢献したニューモデル軍およびクロムウェルの威信は高まった。 だが内戦が終わると、財政難から軍の維持が困難になると同時に、独立派が浸透した軍を議会を牛耳る長老派が警戒、軍の解散を画策し始めた。負担が大きいのは事実で、ニューモデル軍創設前から各地へ割り当てた週割課税(後に月割課税へ変更)と消費税で賄っていた収入は支出より少なく常に赤字、兵士へ給料を支払えず遅延および将来への支払い約束(支払い証書の発行)で先延ばしせざるを得なかった。しかし議会(長老派)は軍解散を目論み一部だけアイルランド遠征に差し向け、残りは解散という計画を練った。これに激しく反発した兵士達は困窮も伴い政治に強い不満を抱き、かねてより軍内部に広まっていた分離派の一派・平等派に入り政治改革を主張し始めた。この時から議会と軍の対立が始まり、長く続く構図となっていった。 クロムウェルは議会と軍の板挟みに苦しんだが、1647年に軍に身を投じ上官のフェアファクスおよび部下で婿のヘンリー・アイアトンらと議会と軍の利害調整に取り組み、軍内部でも平等派と独立派の利害調整に尽力した。それが『建議要目』・『人民協定』発表およびパトニー討論出席に繋がり、時には平等派の暴動もあったが、クロムウェルは素早く鎮圧してギリギリの判断で軍の忠誠を繋ぎとめた。これと前後して、議会派の軟禁から脱走したチャールズ1世が議会派との関係が悪化していたスコットランドと和睦、翌1648年に第二次イングランド内戦が勃発するとニューモデル軍はフェアファクス・クロムウェルの指揮下で再び駆り出され、プレストンの戦いでクロムウェルとジョン・ランバート率いる軍はスコットランド軍を撃破、短期間で第二次内戦を終わらせた。 にも拘らず、議会の軍に対する冷淡な態度は相変わらずで、チャールズ1世との和睦工作とそれに抗議する軍を無視したため、12月6日に軍は政治介入を決断、プライドのパージで議会長老派は追放、独立派と軍幹部が主導権を握ったランプ議会は1649年にチャールズ1世を処刑しイングランド共和国を創設、清教徒革命は新たな段階に入った。
※この「内戦活躍と政治勢力化」の解説は、「ニューモデル軍」の解説の一部です。
「内戦活躍と政治勢力化」を含む「ニューモデル軍」の記事については、「ニューモデル軍」の概要を参照ください。
- 内戦活躍と政治勢力化のページへのリンク