内戦終了後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:00 UTC 版)
内戦終了後、ギリシャは冷戦構造の中、地中海東部におけるアメリカ合衆国の最重要地域と化した。そのため、ギリシャにはアメリカ合衆国の介入が発生、さらに内戦で力をつけた軍、王室が絡み合うことで政治への介入が発生することとなった。1950年の朝鮮戦争にギリシャ軍は派兵を行い、翌年には北大西洋条約機構(NATO) に加入、さらに左派を排除したことにより、アメリカ合衆国のコントロール下におかれていた。さらに軍も内戦を通じて政府ではなく、王室に忠誠を誓っており、このため国王の発言力が増すこととなった。1950年、戒厳令が解除されたことにより総選挙が行われたが、第一党を得た右派ではなく、議席数で多数を得た中道政党による連立政権側も安定多数を保持することができなかった。翌年、再選挙が行われたがここで右派が第一党を奪取したがやはり安定多数を得ることはできず、政局はさらに混乱することになった。しかし、ここで右派政権の成立を望むアメリカ合衆国が介入、選挙改革が行われたことにより、右派国民結集党が安定多数を確保、右派政権が成立した 。1952年、NATOに加盟。 首相となった第二次世界大戦の英雄、パパゴスは経済的混乱の収拾に成功、さらに親米路線をとることにより、政局も安定を見せた。パパゴスの死後、コンスタンディノス・カラマンリスが国王により首相に任命され、さらなる辣腕を振るうことによりギリシャは経済的発展を見せた。しかし、1958年の選挙において共産党系の政党、左翼民主連合が第二党になったことにより、1961年の選挙ではありとあらゆる手段をとって左翼勢力へ選挙妨害等の圧力がかけられた。そのため、この選挙は「暴力と欺瞞の選挙」と呼ばれたが、中道連合が第二党に躍進した。この選挙妨害により、中道連合と左派は民主的選挙を求めデモ等を行った。1963年5月27日にテッサロニキでベトナム戦争の反戦集会の最中に、民主左翼同盟(英語版)党首グリゴリス・ランブラキスが暗殺され、政局はさらに悪化することとなった 。 1963年7月、コンスタンディノス・カラマンリスが、親ナチス的な発言を行なうフリデリキ王妃との関係が悪化すると、パウロス国王が公然と政治介入を行い、首相を解任される。11月の選挙で中道右派のカラマンリスが破れ、中道連合が政権を担うことになった。さらに中道連合は左翼民主連合の支持を得た上で翌1964年2月の選挙に絶対多数を得た。さらに、首相となったゲオルギオス・パパンドレウが内戦期の政治犯の釈放に着手、さらに東側諸国との関係改善に着手したため、アメリカ合衆国政府は警戒を示し、軍内部の右派勢力も行動を開始した 。
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