条約締結後の推移
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/20 01:45 UTC 版)
「厳粛な同盟と契約」の記事における「条約締結後の推移」の解説
同盟でイングランドと共同で内戦に当たったスコットランドだが、締結してから逆境にさらされるようになった。 締結当初から条文の修正が問題になり、長老派が嫌う独立派が排除されないことにスコットランドは警戒心を抱き始めた。ウェストミンスターへ派遣されたスコットランド代表も独立派の活動に不安と恐れを感じ、内戦が独立派の勝利に終わることを危惧するようになった。スコットランド本土でも足元がぐらつき、ハミルトン公は弟のラナーク伯爵ウィリアム・ハミルトンと共にチャールズ1世の下へ走ったが内輪揉めで失脚、代わってチャールズ1世の側近になったモントローズ侯爵ジェイムズ・グラハムが1644年8月にスコットランドで王党派結集を図り挙兵(スコットランド内戦(英語版))、本土の盟約派はモントローズ侯に手も足も出ずスコットランド代表の権威は失墜、マーストン・ムーアの戦いで勝利し独立派のクロムウェルが台頭する皮肉な展開にも脅かされ、スコットランドは内外共に不安な状況に置かれていった。 1645年、鉄騎隊を中核とした独立派主体のニューモデル軍がネイズビーの戦いで王党派に勝利、長老派教会の統一が無くなったため内戦終結後スコットランドとイングランドは同盟から対立に変わり、巻き返しを狙ったハミルトン公は盟約派の不満分子や貴族を取り込み、ワイト島へ逃亡したチャールズ1世と1647年12月に和解契約を結び第二次イングランド内戦を勃発させた。だがイングランドへ侵入したハミルトン公が翌1648年8月のプレストンの戦いで大敗、処刑されるとアーガイル侯が再起してハミルトン派を追放、クロムウェルと和睦し不安定ながらも両国の提携を復活させた。なおハミルトン公率いるスコットランド軍が侵入したため同年1月にイングランドは両王国委員会を廃止、厳粛な同盟と契約から生じる責務も破棄された。 1649年に独立派がチャールズ1世を処刑してイングランド共和国を樹立するとスコットランドは再度イングランドと対立、アーガイル侯ら盟約派も王党派に味方しチャールズ2世を擁立し第三次イングランド内戦が発生した。ここで厳粛な同盟と契約が持ち出され、スコットランドは厳粛な同盟と契約と国民盟約の遵守をチャールズ2世に約束させ長老派教会確立を目論んだが、クロムウェル率いるニューモデル軍に敗れ(1650年のダンバーの戦い・1651年のウスターの戦い)、チャールズ2世が亡命しスコットランドも独立を失い不可能になった。そしてスコットランドはイングランドに統合された。
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