条約調印に至る日本側の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 03:26 UTC 版)
「日ソ基本条約」の記事における「条約調印に至る日本側の背景」の解説
1924年までにスターリンがソビエト連邦の政権を握り、それまでの世界革命路線を取り下げ一国社会主義路線を打ち出し、国際共産主義の脅威は切迫したものではなくなった。また、冷却した日ソ関係が日本経済に大きな不利益を発生させていた。例えば、敦賀港・舞鶴港を通して沿海州と貿易を行っていた関西財界は輸送網を遮断されてしまい、オホーツク海で漁業を行っていた漁師らはソ連の沿岸住民らの妨害にさらされた。このように世論にはソ連との修好回復を望む声が高まってきたため、日本も国交正常化に前向きとなっていった。 またソ連は極東では混乱の渦中にあった中国との連携を図り、1919年(大正8年)のカラハン宣言では、中国との対等関係の国交の樹立、中東鉄道(東清鉄道が改称)の還付を約束し、さらに広東の孫文政権に協力した。日本は満洲を根拠とする軍閥張作霖を篭絡していたものの、叛服常なき張を扱いかねていた。こうした中にあって、中国での権益を守るためにも国交を樹立すべきことを真剣に唱えたのが、初代満鉄総裁で外務大臣の経験もある後藤新平だった。後藤は、日本が極東で利権を確保するためにはイデオロギーの問題に捉われずにソ連と友好関係を結ぶことが必要であり、またワシントン条約で日本が列国に閉塞させられた状況を打開するには国際秩序にソ連を再び引きずり込む必要があると考えた。こうして後藤は右翼勢力の反発がありながらも交渉に取り組む。 ポーツマス条約で日本が得た沿海州沿岸の漁業権と並んで日ソの交渉の中で問題となったのは、日本軍が駐留を続ける北樺太に埋蔵されているとみられていた石油・石炭資源の利権を巡る問題だった。交渉の結果、ソ連側は駐留日本軍の撤退と引き換えに北樺太の天然資源の利権を日本側に与えることで決着した。この際に「北樺太から撤兵した後に5か月以内に石油利権契約を締結する」と定められ、日本は取引材料を返還した後に交渉に臨むこととなり、後年に両国関係が悪化し、ソ連から操業妨害を受けたときに対抗しにくい契約となった。こうして日本側は出兵の代償をわずかに確保して面子を立て、日ソ基本条約に調印するに至った。
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