条約締結後
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1725年7月31日、マサチューセッツ総督のダマーは休戦を宣言した。同じ年の12月15日にメインで、1726年の6月30日にノバスコシアで平和条約がそれぞれ署名された。 この戦争の後、ノリッジウォックのラル神父の敗退と、その後の、ケネベック川とペノブスコット川からのインディアンの撤退を受けて、メイン西部は、イギリスの強い支配下に置かれた。現在のニューブランズウィックとノバスコシアでは、戦争後の条約により、ヨーロッパ人とミクマク族、マリシート族との関係がより大きなものに変わって行った。これは、ヨーロッパの勢力が、入植者と土着の人々とが交渉する必要があることを認めた、その最初であった 。 ノバスコシアのミクマク族とマリシート族は、自分たちがイギリス臣民であることを宣言しなかった。メインで、この戦争がニューイングランドの勝利と思われているのと同様に、ノバスコシアではインディアンの勝利と思われていた。とはいえ、ニューイングランド人は、インディアンたちに土地の所有権があるのを認めざるを得なかった。ノバスコシア植民地が目指すことは、インディアンに敗北を認めさせることよりも、イギリス国王の同盟者となりフランスの敵となるように、彼らに影響を与えることの方だった。 フランスはメインにおける足場を失ったが、何年もの間、現在のニューブランズウィックがフランスの支配下にあった。ノバスコシアの平和はその後18年続いた。
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条約締結後
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「ソ連・ポーランド不可侵条約」の記事における「条約締結後」の解説
1938年9月23日、ソビエト連邦はポーランド政府に、チェコスロバキア併合にポーランドが参加した場合、条約は無効にすると通知した。しかし、この脅しは実行されなかった。ソビエト政府はポーランドがテッシェン地方を占拠した後、条約は現状のまま継続された。そして、1938年11月26日に2つの陣営により継続の調印がされた。( を見よ)。 条約は、その時ポーランド外交の成功であると考えられていたが、ドイツとの関税戦争や、ヴェルサイユ条約の一部の放棄や、フランスとの絆が弱まることによりそれ以上にポーランドは弱体化してしまった。これは、ポーランドのドイツとの交渉を強め、18ヵ月後、ドイツ・ポーランド不可侵条約が結ばれた。
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