関税戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/09 10:14 UTC 版)
「ドイツ・ポーランド関税戦争」の記事における「関税戦争」の解説
第一次世界大戦後まもなくの対ドイツ貿易はヴェルサイユ条約で取り決められていた。この条約で、ドイツは連合国の中心だった三国協商のみならず、独立した東欧諸国にも極度の譲歩を求められていた。旧ドイツ帝国領で新たにポーランド領となった地域での生産品は、その地域の経済破綻を防ぐため、関税を免除された。また1922年に結ばれたジュネーヴ条約では、ドイツはポーランド領上シロンスクで産出された石炭を一定量輸入することを義務付けられた。両条約とも、その有効期限は1925年6月15日となっていた。 1924年6月、ポーランドで新関税法が成立した。これは他の競争国からポーランド市場を守り、金融ニーズを補うことを目的とした法であった。またこの法は、将来の他国との貿易協定締結の下地となる予定だった。一方で、ポーランドが二国間協定を結んだフランス、チェコスロバキア、ハンガリー、ギリシャからの輸入品には100パーセントの関税がかけられた。 ポーランドは関税特権の更新を求めたが拒絶された。1925年初頭の交渉では、ドイツは貿易問題や少数ドイツ人の問題などをとりあげて、交渉を長引かせようとした。そして6月15日、ポーランドの特権を認めた諸条約が失効した。ドイツはポーランドに対し、ヴェルサイユ条約による特権の期限延長を諦めるよう、また6か月前に終了していたウィーン会談での合意を改定するよう要求した。ドイツとしてはポーランドが譲歩することを望んでおり、そうなれば再びドイツ人商人が国境を行き来できると考えていた。一方でドイツの政治的・経済的影響を取り除こうとしていたポーランドにとっては、これはあまりにも繊細な問題だった。 またドイツは、ポーランド領内に住む少数派ドイツ人へ特権を付与することも要求した。 1925年1月、ドイツは主権を回復し、それに伴いポーランドからの全石炭輸入を停止し、すべてのポーランド製品に対する関税を引き上げた。一部製品に対しては禁輸措置まで取られた。 ワルシャワのポーランド政府は、対抗措置としてドイツ製品に掛ける関税を引き上げた。1925年3月3日に行われた交渉では、ドイツは石炭取引の旧情回復と引き換えに、ポーランド内の少数派ドイツ人にさらなる特権を与えるよう要求したが、ポーランドに拒絶された。 通貨ズウォティの価値は下落し、ポーランド内の工業生産も縮小の一途をたどった。最も大きな打撃を被ったのは、ポーランドで最も先進的な地域にして最もドイツに依存していた上シロンスクだった。1925年11月、ヴワディスワフ・グラプスキ政権が崩壊した。 またドイツは、ポーランドがイギリスに求めていた融資についても妨害をかけた。ドイツは、ポーランド国家を間接的に崩壊させた後にその領土を併合しようと企んでいたのである。 1926年12月10日、ポーランド使節団が問題の平和的解決を取りまとめようとしたのに対し、シュトレーゼマンは、国境問題が解決されるまでドイツ・ポーランド関係の正常化はあり得ないとして、対話を拒絶した。彼は「領土問題」の示す範囲として、上シロンスク(シュレージエン)、ポンメルン、ダンツィヒ(グダンスク)を挙げた。ドイツ帝国銀行総裁ヒャルマル・シャハトはこれに同意して、上シロンスクとポーランド回廊がドイツに返還されて初めて、ポーランドとのあらゆる経済合意が結べると主張した。ロバート・スポールディングは、時間が経つにつれて「ドイツの政治的要求は空想的な域にまで膨れ上がった」と述べている。 関税戦争は、公式には1934年3月にドイツ・ポーランド不可侵条約が結ばれるまで続いた。チェコスロバキアやオーストリア、イタリアが対ポーランド鉄道輸送関税を引き下げ、石炭を積極的に輸入することでポーランドを救った。スカンディナヴィア諸国も、1926年のイギリスゼネストの影響で対ポーランド市場を開放している。
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