1891年からの世界
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「大不況 (1873年-1896年)」の記事における「1891年からの世界」の解説
余剰資本が生産制限に我慢できなくなって、1887年から鉱山が再び開発された。百万ポンド単位のイギリス海外投資額は、各地域に対して1885年から1891年までの各年におき次のような値となった。ヨーロッパでは3.4・5.0・12.9・10.1・11.2・12.3・5.0であった。北米では14.1・14.0・23.9・37.2・37.2・52.8・18.7であった。南米では7.1・19.3・18.9・40.3・40.2・23.3・9.4であった。アフリカへの投資はまだ本格化していない(4.7・2.5・1.5・4.2・8.9・4.6・6.6)。ネバダ州・コロラド州・アイダホ州が銀鉱山を抱えるアメリカでは1890年にシャーマン銀購入法が成立した。しかし南北アメリカの開発により、1891年から金銀比価が異常に開きだした。その勢いは1893年恐慌が起こるまで止まらなかった。その後も銀の下落傾向が続いて、1900年にアメリカは立法により金本位制を再確認した。 中央銀行を頂点とする間接金融は全体的に鈍化した。そこでは直接金融が代替手段となる。社債特にロンドン証券取引所で発行する外債である。外債発行の幹事・窓口となる銀行が、資金を必要とする企業の将来を支配した。株式は、それを引受ける側が独占体制を構築するのにも使われた。ライヒスバンク(高)とイングランド銀行(低)の割引率格差が、ドイツに短期資本を呼び込んだ。資本支配には各国内部の人脈(家系・監査役兼任・技術提携その他あらゆる関係)が影響して、カルテル・トラスト・コンツェルンだけにとどまらない多様なバリエーションが展開した(ドイツ帝国#経済を参照)。ベッセマー転炉等の過剰な設備投資が行われ、急激な合理化により生産力も過剰となった。こうして将来の戦間期に国際カルテルを結ぶ大企業が生まれていった。ヨーロッパの中で資金と雇用を求めるとき、そうしたコングロマリットに頼る以外の道が閉ざされていった。 一方でアジア各国は、鉱業の合理化が遅れて、金を退蔵したまま銀本位制にとどまり、貿易銀の流通を長く許した。要するに、鋳貨全体における競争で負けていた。それで国内金融制度は整備が遅れた。金利は高止まりした。金本位制の採用は、日本の場合1897年の貨幣法を待たねばならなかった。そこへオリエンタル・バンクなどの外国銀行で銀価格下落による会計上の損失が生じた。もっとも、香港上海銀行は金と銀を別々に会計処理したので被害を免れた。こうしてイギリスでは夥しい銀行が淘汰され、個人銀行の場合1875年の236行から1900年81行にまで減じた。これにともないアジア各国および産業の資金調達元は限られてきた。資金の募集は欧州各国および産業と競合した。 金が基軸通貨となり、金を知る者・持てる者へ資金需要が殺到した。半世紀後のブレトンウッズ体制がドル不足を露呈したように、大不況では金属としての金が不足した。海底ケーブルによりグローバル経済が進展して、金という決済手段の流動性を極度に高めた結果、その他の金融資産およびモノとサービスが流動性と交換性を失った。 世界の主要貿易国で次々と成立した保護貿易主義政策の結果、1870年から1890年の間、国際商船取引は全く成長しなかった。保護貿易主義には景気を好転させる働きはなく、不況が長期化する一因となった。それ以前の関税戦争前の好況期には、商船取引量は総トン数でおよそ2倍に成長していた。唯一英国とオランダだけは、低い関税率のまま維持していた。1890年からドイツの輸出環境が悪くなりだした。マッキンレー関税法が対米輸出の障害となったのである。さらに1892年、アドルフ・ティエールの保護貿易主義をうけて過酷なメリーネ関税がフランスで設定された。ユンカーがオットー・フォン・ビスマルクをして採用させた1879年の保護関税は、もはや頼りにならなくなった。金本位制を再確認した1900年前後に集中して、アメリカでは膨大な件数・企業数・資本額の吸収合併が相次いだ。イギリスでの吸収合併はさほどでもなかった。オール・レッド・ラインと海運アライアンスの貢献は大きい。このようなイギリスはボーア戦争をきっかけに公債等の形でアフリカへの投資を本格化させた(1903年がピークで資本輸出額が4240万ポンド)。メリーネ関税を設けたフランスは、イタリアを相手に1887年以降10年にわたる関税戦争を経験していた。フランスはイタリアへの最大の投資国であるため、イタリア国内のフランス資産が清算されたことで特に損失が大きかった。フランスは露仏同盟を背景にロシアへも巨額の資本を輸出した。ロシアでは3回の不況が発生し、経済が製造業へ集中し、不況の発生した時期も近く、これらの不況の合間には景気回復の期間があった。
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