オールレッドライン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 00:03 UTC 版)
「オーストラリア」の記事における「オールレッドライン」の解説
19世紀前半にメリノ種の牧羊が普及した。1859年に持ち込んだウサギが牧草を食べてしまい、羊毛生産量を減じた。バサーストに始まったゴールドラッシュの開拓者に食わせる肉が必要だった。19世紀後半には鉄道が敷設されてゆき、ケーブル・アンド・ワイヤレスが陸揚げを果した。羊毛業はジリ貧となって、義賊ネッド・ケリーが出た。彼はメルボルン万国博覧会の期間中に処刑された。ベアリング恐慌が響いて1893年5月頭バンクホリデーに陥った。 パリ講和会議には、首相ヒューズが全権代表として参加した。太平洋の旧ドイツ領諸島の帰属について日本と激しく争った末に、赤道を挟んで北側をC式委任統治領として日本が確保することで妥結した。また、日本が提案した人種平等案に対してはカナダと共に反対し、これを阻止した。ワシントン会議では蚊帳の外に置かれたが、1925年には太平洋問題調査会がホノルルで発足、1961年まで活動した。 第二次世界大戦の終結年において、スターリング・ポンド圏にとどまる外交姿勢を堅持した。1950年、フランク・フェナー博士が指揮する調査のあと、野ウサギを駆除するため天然痘の遠い親類が撒かれた。半年足らずで蔓延し、個体数を二度と繁栄できない数にまで減らした。1950年代にダグラス・コップランドが、オーストラリアのポンド圏残留によって、ニュージーランドとともにブレトンウッズ協定からくるドル不足から逃れたことを認めた。しかし同時に、この残留措置が経済成長を遅らせるという見解も示した。1950から60年代、覇権をかけて、セカンダリー・バンキングが途上国から引き上げたポンドとUSドルを投下した。
※この「オールレッドライン」の解説は、「オーストラリア」の解説の一部です。
「オールレッドライン」を含む「オーストラリア」の記事については、「オーストラリア」の概要を参照ください。
- オール・レッド・ラインのページへのリンク