イギリスによる海底ケーブル網の完成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 16:59 UTC 版)
「海底ケーブル」の記事における「イギリスによる海底ケーブル網の完成」の解説
大西洋横断ケーブル敷設後の1868年、イギリスはこれまでの国内すべての電信会社を国有化した。そして、それらの会社に多額の買収金が支払われた。この資金をもとに、イギリスは次々と新しいケーブルを敷設していった。ケーブル網は南アフリカのケープタウンや、ブラジルのペルナンブーコ、ウルグアイのモンテビデオまで達した。 中でも重要視されたのが、イギリスの植民地だったインドとの通信であった。イギリスとインドはすでに陸上のケーブルで結ばれていたが、このケーブルは通信状態が悪かったので、新たなケーブルを必要としていた。そして、イギリスからイベリア半島、地中海を通り、さらにスエズからアデンを経由してムンバイへと至る海底のインド洋線が開通し、1870年から通信を始めた。さらに1872年には、インドからオーストラリアへのケーブルも敷設された。 インドへの海底ケーブルは、開通当時は3つの会社のケーブルを経由してつながっていたが、1872年に、その3社と他の1社を加えた4社は合併し、イースタン・テレグラフ社が誕生した。一方、インド以東のケーブルを所持していた会社も合併し、イースタン・エクステンション社が設立された。この2つの企業は多数の海底ケーブルを有し、通信産業において大きな力を持った。そしてそれは、イギリスの通信面における優位性を示すものであった。イギリスは当時の自国の植民地をつなぐ大きなケーブル網を作り上げることに成功した。このケーブル網は、イギリスの植民地が地図上で赤く塗られていたことにちなみ、オール・レッド・ラインと呼ばれる。 その到達点が、太平洋横断電信ケーブルである。この事業は1878年に開始され、1902年、カナダのバンクーバーから、フィジーを経由し、そこからニュージーランドや、オーストラリアのブリスベンへとつながるケーブルが完成した。同じころ、イースタンが半分出資する会社がサンフランシスコからハワイ、ミッドウェー経由でフィリピンまでつないだ。また、ポーツマス条約締結から1週間で日本と契約し、小笠原を境にグアムと横浜を共同で接続した。 アフリカへのケーブルはジョン・ペンダーが、東アフリカ沿岸についてズールー戦争を機会とし、西アフリカ沿岸は1886年1月に、それぞれ敷設用に補助金を受け取った。後者は年額1万9,000ポンド。これを使ってペンダーはガタパーチャ社からガンビア-カーボベルデ間の敷設権を購入した。3年後、二者は通信量カルテルを結んだ。 また、イギリス政府はロシア南下政策に対抗して上海-朝鮮間のケーブル敷設に8万5,000ポンドを費やしたが、役に立たないことが分かって、1万5,000ポンドでペンダーに払い下げてしまった。
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