イギリスによる植民地支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 09:06 UTC 版)
「シンガポールの歴史」の記事における「イギリスによる植民地支配」の解説
1819年1月、人口わずか150人程度のこの島に、イギリス東インド会社で書記官を務めていたイギリス人トーマス・ラッフルズが上陸を果たす。ラッフルズは当時何もなかったシンガプーラの地理的重要性に着目し、1819年2月6日、当時島を支配していたジョホール王国より商館建設の許可を取り付けた。名称も英語風のシンガポールと改め、都市化計画を推し進めた。1824年には植民地としてジョホール王国から正式に割譲がなされるとともに、オランダもイギリスによる植民地支配を認めることとなった。 無関税の自由港政策を推し進めたこともあり、5年の間にシンガポールの人口は1万人を突破し、急速に発展していった。既に所持していた港町ペナンと、1824年に新たに獲得したマラッカとともに、1826年にシンガポールはイギリスの海峡植民地に組み入れられ、1832年にその首都と定められた。 イギリスによる植民地となった後は、同じくイギリスの植民地であるインドやオーストラリア、中国大陸などとの間でのアヘンや茶などの東西交易、三角貿易の中継地点としての役割にとどまらず、背後に存在する同じくヨーロッパ諸国の植民地下にあったマレー半島のマラヤ連邦州などで産出された天然ゴムやすずの積み出し港としても発展する。この時期に、すず鉱山、天然ゴムなどのプランテーションにおける労働力、港湾荷役労働者、貿易商、行政官吏として、中国(主に福建省や広東省、潮州、海南島などの中国南部)、インド(主に南インドのタミル語圏)、現在のインドネシアなどから多くの移民がマレー半島、シンガポールへ渡来し、現在の多民族国家の起源となった。1869年スエズ運河が開通することにつれて、シンガポールはだんだん東アジアとヨーロッパの貿易通路の中継港となった。この優れた地理位置は、シンガポールに未曾有の繁栄をもたらした。1873年から1930年までの40年間にわたって、シンガポールの貿易額は八倍も増えた。なお、1873年に日本の岩倉使節団がシンガポールに寄港しており、当時の様子が「米欧回覧実記」に記されている。 海峡植民地政庁が郵便局業へ干渉したことに反発して、1876年シンガポール華僑が暴動を起こしている。シンガポールを含むマレー半島では、イギリスの植民地支配下において、インドや中国からの労働力を背景に経済的には発展が進んだものの、マレー人を中心とした在来住民や移民労働者による自治が認められない隷属状況が続いた。20世紀に入った後には、一部知識層の間において独立の機運が高まることとなった。 イギリス植民当局は非常事態宣言を出し、反英活動家に対しては徹底的に取り締まりや弾圧を行う。逮捕され裁判にかけられた労働組合や学生指導者らの弁護を引き受けたのが、のちの初代首相リー・クアンユーである。1947年7月、イギリス植民当局は立法会議選挙法令を公布。1948年3月20日、議席の一部を民選とするシンガポール初の選挙を実施し、20万人の国民がこの選挙に参加した。
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