人民行動党の創設
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「リー・クアンユー」の記事における「人民行動党の創設」の解説
1954年11月21日、“ビールを飲むブルジョアたち”と称した英語教育を受けた中産階級グループと共に人民行動党を創設した。党の創設は容共的な労働組合との政略的な連携を通じたものだった。これは英語教育を受けた層は容共派からの多くの支持が必要だった一方で、マラヤ共産党が違法とされており、共産主義者たちがカモフラージュするための非共産主義政党を欲していたことに起因する。この連携をリーは“政略結婚”と称した。両派の共通の目的は、自治に賛成する世論を喚起し、イギリスによる植民地支配に終止符を打つことだった。 結党式は、ビクトリア記念ホールで開催され、会場は1500人にも及ぶ支持者と労働組合員たちで埋め尽くされた。リーは党書記長 (Secretary-General) となり、後述する1957年の一時期を除いて、1992年までこの地位を保持する。結党式には、マレー人及びムスリムが支持層の統一マレー国民組織 (UMNO) のトゥンク・アブドゥル・ラーマンや、華人系の住民を代表するマレーシア華人協会のタン・チェンロクが、新党に信頼を与えるためのゲストとして招請された。 当時のムスリムと共産主義者との蜜月は、リーが回顧録で後に制定するシンガポールの国旗の三日月は国内のイスラム教徒に配慮し、五つの星は国内の共産主義者に配慮して中華人民共和国の五星紅旗をモデルにしたと語っていることにもあらわれている。
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