イギリスによる征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 07:27 UTC 版)
「イギリス統治下のビルマ」の記事における「イギリスによる征服」の解説
ビルマとイギリスの紛争の発端はコンバウン朝がアッサム州のアラカンまでの拡大を決定したことで、イギリスのインドにおける拠点であるチッタゴンに近づいたためだった。これが第一次英緬戦争(英語版)(1824年~1826年)を招いた。1824年にイギリスは大規模な海上輸送による上陸作戦を行い、ラングーンを無血占領した。 エーヤワディー川のデルタ地に位置するダニュビュ(英語版)で行われた戦いで、ビルマ軍の将軍マハ・バンドゥラ(英語版)は戦死し、彼の軍も敗走した。ビルマはアッサムおよび他の北部諸州を割譲させられた。1826年、ヤンダボ条約(英語版)によって、第一次英緬戦争は公式に終了した。この戦争は英領インドの歴史でも、最も長く最も費用のかかった戦争だった。ヨーロッパ兵とインド兵合わせて1万5千人が亡くなっており、さらに、ビルマの兵士と民間人の犠牲者数は不明である。 この戦役のイギリス側の費用は500万から1300万スターリングポンド(2020年の米ドル換算で180億から480億ドルに相当)という巨額なものだった。このため、英領インドでは1833年に経済危機が起きている。 1852年、第二次英緬戦争(英語版)がイギリスによって引き起こされた。イギリスが獲得したかった目標は大きくふたつ、カルカッタとシンガポールの中間に位置する港と、下ビルマに存在するチーク林だった。25年の平和は破られ、イギリスが下ビルマ全域を占領するまで戦争は続いた。イギリスは勝利し、新たに占領した領土に存在する経済的利益(英語版)、チークや石油やルビーといった産物を手に入れた。 ミンドン王(英語版)は占領されずに残った上ビルマで、帝国主義に対応しようと努力していた。王は政治体制を改革するとともに、外国に便益を図ることで生き残りを図った。しかし、イギリスは1885年11月に第三次英緬戦争(英語版)を開始し、2週間足らずで決着は付いた。イギリス政府は戦争を正当化するため、独立ビルマ最後の王となったティーボーが暴君であり、フランス勢力をビルマに引き込む陰謀を企てていたと主張した。イギリス軍は1885年11月28日にマンダレーに入城した。こうして3回にわたる戦争で段階的に国の各地域を獲得したイギリスは、現在のミャンマーのすべての地域を占領して、1886年1月1日にイギリス領インド帝国の一州とした。
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