第二次英緬戦争
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英緬戦争中 | |||||||
![]() 第二次英緬戦争に出征するビルマ軍兵士 |
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衝突した勢力 | |||||||
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第二次英緬戦争(だいにじえいめんせんそう、英語: Second Anglo-Burmese War、ビルマ語: ဒုတိယအင်္ဂလိပ်-မြန်မာစစ်)は、コンバウン朝ビルマと大英帝国のあいだで1852年から1853年にかけて行われた戦争である。この戦争の結果として、ビルマは下ビルマを喪失した。
開戦
第一次英緬戦争を通して、ビルマとイギリスはヤンダボー条約を締結した。しかし、バジードーを継いでビルマ国王となったターヤーワディはこの条約を認めず、インド提督の派遣した駐箚官もイギリスの代表とはみなさなかった。以来、ビルマとイギリス東インド会社の関係は険悪なものとなる[1]。ターヤーワディおよび次代のバガンの治世下、ビルマにおけるイギリス人の地位は保障されず、ラングーン(ヤンゴン)のイギリス人の間ではこのことに対する不満が高まった[2]。
1851年、ビルマのハンターワディー知事はイギリス人船長を船員殺害の罪で拘禁し、それぞれに罰金を科した。このことにイギリス領インド帝国は抗議した[1]。1852年、ダルハウジー卿ジェイムズ・ラムゼイは条約に関するいくつかの問題について論議するため、ジョージ・ランバート准将を派遣した。ビルマはイギリスに譲歩し、知事を解任したものの[3]、ランバートはラングーン港を封鎖し、ビルマの王室船を拿捕して軍事衝突を起こした[4]。
第二次英緬戦争の性質は議会には歪曲して伝えられており、開戦をめぐる事実関係については当時匿名で刊行された冊子である『インドにおいて戦争はいかにしてはじめられるのか(How Wars are Got Up In India)』からわかることが多い。この冊子の著者はリチャード・コブデンであり、ビルマ侵略・併合に関する決定を下したのが誰かということに関するほとんど唯一の同時代史料となっている[5]。コブデンはラムゼイが砲艦外交を行ったこと、同事件の賠償金を1000ポンドから10万ポンドに引き上げたこと、彼がビルマ外交の専門家であるアーチボルド・ボーグル(Archibald Bogle)ではなくランバートを派遣したことを非難したが、ラムゼイはランバートが第二次英緬戦争を引き起こしたことを否定した[3]。
戦闘

1852年1月、イギリス軍はラングーン・バセイン・モールメインの3港を封鎖し、最後通牒に対するビルマ側の返答を待つことなく軍事行動を起こした[2]。4月5日、イギリスはマルタバンを占領した。同12日にはラングーンを占領し(ラングーンの戦い)、シュエダゴン・パゴダを砲撃[6]、14日に制圧した。激しい戦闘の後、ビルマ軍は北面に退却した。イギリスは5月19日にバセイン、6月3日にシュエモードー・パゴダでの激戦の後ペグーを占領した。雨季のあいだにイギリス東インド会社理事会およびイギリス政府はプロームを含むイラワジ川下流域の併合を承認した[7]。戦闘の終結後、いくつかの寺院が略奪を受けた[8]。
ラムゼイは7月から8月にかけてラングーンを訪問し、文官・軍人・海軍当局者と全体の状況について協議した[7]。彼はビルマ全土の併合を目指すのでない限り、王都への進軍は戦争遂行の手段として得策でないとしたうえで、それは軍事的・経済的に達成不可能であると述べた[3]。ヘンリー・ゴドウィン海軍少将は10月9日にプロームを占領した。ビルマ側の指揮官は第一次英緬戦争で戦死したマハー・バンドゥーラの息子であるダベイン卿マウン・ジーであったが、ほとんど反撃はなかった[3]。12月初旬、ラムゼイはバガン王にペグー領の東インド会社領併合を通告した[7]。
終戦
1853年1月20日に併合の布告が出されると、第二次英緬戦争は条約履行なしに終戦した[7]。この戦争の結果としてアマラプラでは政変が起こり、2月、主戦派であったバガン王は和平派のミンドンにより廃位された[1][3]。ミンドンは3月にイタリア人牧師2人からなる和平交渉団をプロームに派遣した。しかし、この段階でイギリス軍はさらに80 km北方のミェーデー(Myedè)まで進出していた[1][3]。この地域にチークが多く生えていたこともあり、イギリスはミェーデーの北6マイル (9.7 km)まで割譲することを要求した。ビルマは地方の首長に過ぎないインド総督を交渉相手とすることはできず、ヴィクトリア女王あての使節団を派遣しようとするものの、これはベンガルの東インド会社により足止めされてしまう。結果、インド政庁の主張は既成事実化し、ビルマはそのまま下ビルマを喪失した[1]。
出典
- ^ a b c d e 石井 & 桜井 1999, pp. 297.
- ^ a b 四宮宏貴「ビルマ戦争」『改訂新版 世界大百科事典』 。コトバンクより2025年10月3日閲覧。
- ^ a b c d e f D.G.E.Hall (1960). Burma. Hutchinson University Library. pp. 109–113. オリジナルの2005-05-19時点におけるアーカイブ。
- ^ Southeast Asia: a historical encyclopaedia, from Angkor Wat to East Timor, Volume 1 By Keat Gin Ooi, p. 736
- ^ This text went through several "editions" rapidly, with the third edition already in print in 1853 (this was subsequently reprinted in The Political Writings of Richard Cobden, vol. 2)
- ^ Laurie, William Ferguson Beatson (1853) (英語). The Second Burmese War: A Narrative of the Operations at Rangoon, in 1852. Smith, Elder & Company
- ^ a b c d
この記述にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). “Burmese Wars”. Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 4 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 847.
- ^ Michael Gravers (1999). Nationalism as Political Paranoia in Burma: An Essay on the Historical Practice of Power. Nias Reports. pp. 8–9. ISBN 0-7007-0980-0
参考文献
- 石井米雄、桜井由躬雄 編『東南アジア史 I 大陸部』山川出版社〈新版 世界各国史 5〉、1999年。 ISBN 4-634-41350-7。
第二次英緬戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 15:46 UTC 版)
「en:Second Burmese War」を参照 1852年、イギリスは再びビルマに侵攻してペグーを占領、海に面した下ビルマを自国領に併合した(第二次英緬戦争、Second Burmese War)。 イギリスはビルマ南部を手にすることで、より一層東アジアへの進出を目指し、アロー戦争(1856年~1860年)でフランスと共に清をさらに圧迫、有利な交易を展開した。1857年にはインドのセポイの反乱を鎮圧してムガル帝国を滅亡させると、1858年に東インド会社を解散させて植民地経営と東方交易をイギリス政府の直轄とし、1867年にはマライ海峡植民地(en)を直轄領として制海権を手にした。フランスも同時期にベトナムへの侵略をはじめ、清仏戦争(1884年~1885年)でインドシナの支配権を確立した。オランダはジャワ島からスマトラ島を攻略して一大植民地を建設した。
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