第二次虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 03:51 UTC 版)
当初は自由主義的であった統一と進歩委員会も、ほどなくその思想は汎テュルク主義、汎トゥラン主義へと傾斜していった。また、続くバルカン戦争から国内のキリスト教徒に対する疑念も深まり(国内のギリシャ人(英語版)は実際に敵国ギリシャ王国へ援助を行っていた)、1913年1月にはクーデターによって統一と進歩委員会の完全な独裁体制が樹立された。 この状況下において、自治権拡大のため列強に外圧を要請するアルメニア慈善協会(英語版)、ロシアから流入し東部でムスリムと衝突を繰り返すアルメニア人武装集団、そして国軍とは別に独自の軍事部門を強化しようとするダシュナク党のような存在は、政府にとっては充分な懸念材料となり得るものであった。さらに、1914年10月にオスマンが中央同盟国として第一次世界大戦に参戦した際には、敵軍であるロシア軍には18万人のアルメニア人正規兵のほか、8,000人の志願兵によるアルメニア人義勇部隊(英語版)が編制されており、これにはオスマンから国境を越えて志願した者も含まれていた。 開戦後まもない1915年2月から、アルメニア人官吏の解雇、兵士の労働大隊(英語版)への配置替え、農民からの武器の供出などが行われ始めていた。そして同年4月に発生したアルメニア人によるヴァンの反乱が引鉄となり、ついに国内からのアルメニア人の追放作戦が実行に移された。のちにアルメニア人虐殺追悼の日(フランス語版)とされる同年4月24日、国内の著名なアルメニア人政治家・知識人など約600人が一斉に官憲に検束され、その多くが殺害された(赤い日曜日(英語版))。以降1917年2月ごろまでの1年以上をかけて、アルメニア人のシリア、イラク方面への追放が秘密裏に行われた。最終的に、虐殺や死の行進などによって、60万人とも100万人とも言われる数のアルメニア人が犠牲となった。 アルメニア人の側は、この大量虐殺を意図的な民族抹殺であるととらえる。その一方でオスマンの後継国家となったトルコの側は、移送はあくまでアルメニア人を安全な場所へ退避させるためであり、アルメニア人過激派との戦闘は行われたが、その他大量死は過酷な環境下での意図しないものであったとの立場をとっている。大戦後に統一と進歩委員会が裁かれた軍事裁判(英語版)では、アルメニア人虐殺もおもな訴因とされ、タラート、エンヴェル、ジェマルの3パシャをはじめ多くの者に死刑判決が下された。しかし、これらの判決のほとんどは執行されず、アルメニア人たちの不満はのちに、ダシュナク党による3パシャらの暗殺事件「ネメシス作戦(英語版)」へと行き着くこととなった。
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