第一次世界大戦に参戦
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「アラン=フルニエ」の記事における「第一次世界大戦に参戦」の解説
1914年、第二作目となる未完の小説『コロンブ・ブランシェ』に着手するが、第一次世界大戦の勃発により8月1日に召集を受け中断。翌日には中尉に昇進した。フルニエは英語の通訳として後方勤務の可能性もあったが「仲間と共に戦いたい。」と拒否した。イザベルとの手紙の中でも「美しく偉大な正義の戦争」という表現が見られる。当時の世論としては戦争は必ずしも悪ではなく、ほとんどの文学者も同じ立場を取っていた。シモーヌと共に車でミランドへ行き第288連隊に合流。この地は20歳になったフルニエが兵士としての訓練を2年間にわたって受けた場所であった。シモーヌは離婚しており、彼女との手紙のやり取りの中で、「今や君は僕の妻だ。戦争が終わったら結婚しよう。」などの約束が取り交わされている。ミランドを訪れた両親はフルニエとシモーヌが一緒にいるのを見て驚いた。両親には二人の事は何も話してなかったのである。陸軍中尉としてヴェルダン付近でドイツ軍との戦闘を指揮するが、9月22日、オード・ムーズで21人の連隊兵と共に消息不明となる。負傷してドイツ軍に連れ去られたとも言われた。生前、単行本として発表された作品は『グラン・モーヌ』だけだが、死後ジャック・リヴィエールにより、未発表の詩や小説の草稿、雑誌に発表された数篇のエッセーがまとめられ、リヴィエールの序文を付されて、1924年『奇蹟』という題で刊行された。他にはリヴィエールと取り交わした往復書簡集をはじめ、友人や家族に宛てた書簡が刊行されている。1991年になってから21名の戦友の遺体と共にドイツ軍の共同墓穴で発見され、本人と判定され、1992年11月にサン=レミ=ラ=キャロンヌ(フランス語版)の陸軍墓地に埋葬された。27歳没である。
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