第一次世界大戦と革命
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「セルゲイ・プロコフィエフ」の記事における「第一次世界大戦と革命」の解説
第一次世界大戦の最中、プロコフィエフは音楽院に復学してオルガンを学ぶことで徴兵を逃れた。フョードル・ドストエフスキーの小説『賭博者』を題材にオペラ『賭博者』を作曲したが、リハーサルは問題に悩まされ続け、1917年に予定されていた初演は2月革命の勃発により中止を余儀なくされてしまった。同年の夏には交響曲第1番『古典』が書き上げられた。副題はプロコフィエフ自身によって付けられており、作曲者曰くハイドンがもし同じ時代に生きていたとしたら用いたであろう様式の音楽となっている。この作品は様式的には多かれ少なかれ古典的であるが、当時の音楽の要素が多分に盛り込まれている。 交響曲第1番と時を同じくして生まれたのがヴァイオリン協奏曲第1番であった。1917年11月の初演が計画されていたが、どちらの作品も延期となり、それぞれ1918年4月21日、1923年10月18日まで待たねばならなくなった。プロコフィエフはコーカサス地方のキスロヴォツクにて、一時母と過ごしていた。 管弦楽と合唱のための「カルデアの祈祷」とされたカンタータ『彼らは7人』の総譜完成後、プロコフィエフは「何もすることがなく、宙に浮いた時間が重く自分の両手の上にある」状態に陥った。ロシアが「いま音楽を必要としていない」と考え、祖国の騒乱が過ぎ去るまでの間をアメリカ合衆国に運命をかけることを決断した。1918年3月にモスクワとペテルブルクへと向かい、財政面を整えてパスポートの手配を行った。5月には米国へと旅立つことになるが、教育人民委員であったアナトリー・ルナチャルスキーから公式に許可を得てのことだった。ルナチャルスキーはこう述べていた。「君は音楽の革命家、我々は人生の革命家だ。私たちは一緒になって働かねばならない。だが、君がアメリカに行くことを望むのなら、私は君の道に立ち塞がるような真似はすまい。」
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