ペテルブルクへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 13:50 UTC 版)
享和3年(1803年)3月6日、若宮丸漂流民13人全員が役所に召集された。そこで役人から皇帝の命令書が届いたので、明日、皇帝の遣いとともにペテルブルクに向けて出発するように通達された。この命令を聞いた若宮丸漂流民たちは、世話になった人たちに挨拶を済ませ、急いで旅支度をした後、翌3月7日、馬車7台に分乗し、イルクーツクを出発した。なお、この旅には新蔵も付き添いとして同行した<。 しかし翌日の3月8日、イルクーツクから200kmほど行った場所で左太夫と清蔵の2人が乗り物酔いのために脱落した。2人は回復次第、別便で追及することになり、一行は再びペテルブルクに向けて出発した。馬車は昼夜を問わず走り続け、1日に130km~140km走った。一行はクラスノヤルスク、トムスク、エカテリンブルクを過ぎ、ペルミに着いた。しかし、この町で銀三郎がはしかのような病気に罹ってしまい、病状の悪化からとても旅を続けられる状態ではなくなったため、銀三郎はペルミの病院に入院し、一行は先を急ぐことになった。 一行はこの後、カザン、モスクワを経由し、4月27日にペテルブルクに到着した。
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