船員一覧
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表の中で青色で示した人物は死亡もしくは文化9年(1812年)時点での消息がはっきりしていない人物で、赤色で示した人物は帰国を果たした人物である。 役職氏名遭難時年齢出身地遭難後の足取り沖船頭 (船長) 平兵衛 31 牡鹿郡石巻 船主である米沢屋平之丞の息子。寛政6年6月8日(1794年)、アリューシャン列島で病死。享年32歳。 楫取 (操舵手) 左太夫 51 宮城郡浦戸諸島寒風沢島 イルクーツクからペテルブルクに向かう途中で病のため落伍し、イルクーツクへ引き返した。その後の消息は不明。 賄 (事務長) 儀兵衛(儀平) 32 桃生郡深谷室浜 帰国し、室浜へ帰郷した。帰郷した文化3年(1806年)に没した。享年45歳。 船親父 (甲板長) 吉郎次(吉郎治) 67 牡鹿郡小竹浜 寛政11年2月28日(1799年)、イルクーツクで病死。享年73歳。 水主 (船員) 津太夫 49 宮城郡浦戸諸島寒風沢島 帰国し、寒風沢へ帰郷した。文化11年7月29日(1814年)に死没。享年70歳。 左平 31 宮城郡浦戸諸島寒風沢島 帰国し、寒風沢へ帰郷した。文政12年4月12日(1829年)に死没。享年67歳。 民之助 30 宮城郡浦戸諸島寒風沢島 イルクーツクで洗礼を受けてロシアに帰化した。洗礼名はイヴァン・メイトロヴィチ・キセリョフ。ペテルブルクで皇帝アレクサンドル1世にロシア残留を希望した。その後の消息は不明。 銀三郎 29 宮城郡浦戸諸島寒風沢島 イルクーツクからペテルブルクへ向かう途中、病のためペルミで落伍。イルクーツクへ戻ったか。文化9年(1812年)の時点で、病気で寝たきり状態となっていた。 茂次郎 29 牡鹿郡小竹浜 ペテルブルクで皇帝アレクサンドル1世にロシア残留を希望した。その後、洗礼を受けてロシアに帰化した。洗礼名はザハル・ブルダコフか。文化9年(1812年)の時点で、イルクーツクにあった露米会社の事務所で働いていた。 市五郎 29 牡鹿郡石巻 寛政8年10月23日(1796年)、オホーツクからイルクーツクへ向かう途中にヤクーツクで病死。享年32歳。 八三郎 25 陸奥国牡鹿郡石巻 イルクーツクで洗礼を受けてロシアに帰化した。洗礼名セミョン・グレゴレヴィチ・キセリョフ。ペテルブルクで皇帝アレクサンドル1世にロシア残留を希望した。その後の消息は不明。 善六 24 牡鹿郡石巻 イルクーツクで洗礼を受けてロシアに帰化した。洗礼名はピョートル・ステファノヴィチ・キセリョフ。寛政8年(1796年)にイルクーツクの日本語学校教師補となり、文化12年(1815年)より正教師。ペテルブルクで皇帝アレクサンドル1世にロシア残留を希望した。レザノフの日本行きに随員として参加したが、ペトロパブロフスクで下船した。文化10年(1813年)にゴローニンの引き受けのためにロシア側の通訳として箱館を訪れた。文化13年(1816年)頃に死没。享年47歳。継右衛門や中川五郎治などロシアに漂着、連行された日本人の世話もした。 太十郎 23 桃生郡深谷室浜 帰国し室浜へ帰郷した。文化3年4月1日(1806年)に死没。享年36歳。 辰蔵 22 宮城郡石浜 イルクーツクで洗礼を受けてロシアに帰化した。洗礼名はアンドレイ・アレクサンドロヴィチ・コンドラトフ。ペテルブルクで皇帝アレクサンドル1世にロシア残留を希望した。文化9年(1812年)の時点で、トムスクの馬車駅で働いていた。 清蔵 不詳 牡鹿郡石巻 イルクーツクからペテルブルクへ向かう途中、病のため落伍し、イルクーツクに引き返した。文化9年(1812年)の時点で、アンガラ川とバイカル湖を行き来する船乗りとなっていた。 炊 (船員見習い) 巳之助 21 牡鹿郡石巻 ペテルブルクで皇帝アレクサンドル1世に残留を希望した。その後、洗礼を受けてロシアに帰化した。洗礼名はミハイル・ジェラロフか。文化9年(1812年)の時点で、アンガラ川とバイカル湖を行き来する船乗りとなっていた。
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