露米会社
露米会社
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サンクトペテルブルクに生まれる。14歳のころには既に5か国語をマスターしていたといわれる。1778年、砲兵学校を出て近衛連隊に入隊。1782年には退役して地方裁判所の判事となり、1787年にはサンクトペテルブルク裁判所勤務、のち海軍省次官秘書などを務めた。 1791年にはデルジャーヴィン配下の官房長となる。女帝エカチェリーナ2世晩年の最寵臣プラトン・ズーボフはレザノフに関心を持ち、レザノフはズーボフのために部下として働くことになった。ズーボフはこの時期に毛皮交易に関心を寄せており、東シベリアのイルクーツクにいる毛皮商人のグリゴリー・シェリホフと連絡をとっていた。シェリホフはイヴァン・ゴリコフとともに「シェリホフ=ゴリコフ毛皮会社」(Shelikhov-Golikov Fur Company)を設立し、アラスカ・北太平洋方面への植民や交易活動を行っていた。 1793年冬、レザノフはズーボフの代理としてイルクーツクのシェリホフの事業を視察するため、シベリア横断の旅に出た。1794年夏にレザノフはイルクーツクに着いた。イルクーツクはレザノフの父も数十年前に官吏として赴任していたことがある街であった。シェリホフが年に一度清国との国境の町キャフタで行う交易にもレザノフは同行した。レザノフは、イギリスが海路を使って広州で行う交易に比べると、陸路による清露間のキャフタ交易が非効率かつ旧態依然であることを考えざるをえなかった。1795年1月、レザノフはシェリホフの14歳の娘アンナと結婚し、新婦の持参金としてシェリホフの会社の持分が手に入った。アンナは7年後に産褥死したが、その間にレザノフは共同経営者として会社と事業の拡大を進めた。1795年にシェリホフが死ぬと彼は会社の指導者となった。しかし会社の所有権はシェリホフの妻ナターリアのものであり、ゴリコフの離脱にともない「アメリカ会社」と改名された会社の経営からレザノフは次第に疎外されてゆく。 レザノフは会社を取り戻して業務を拡大するため、イギリスの勅許会社のようにロシア皇帝から勅許を得て、ロシアの毛皮事業を独占すべきと考えた。レザノフはエカチェリーナ2世の宮廷をうまく立ち回り、勅許を自分に下すよう説得することに成功するが、直後にエカチェリーナ2世は没した。レザノフは新皇帝パーヴェル1世から勅許を得るために説得を最初からやり直したが、非常に精神不安定で強情な新皇帝から良い返事をもらえる見込みは絶望的であった。しかしレザノフは屈せずに皇帝の説得を続け、その間の1797年には、ライバル会社であるイルクーツクのミルニコフ会社をアメリカ会社に統合させて「合同アメリカ会社」を作り、その経営者となることに成功した。1799年7月、パーヴェル1世は、北緯55度線以北のアメリカ大陸にロシア領アメリカ植民地を設立し、勅許会社である露米会社(露領アメリカ会社)に植民地の経営を独占させる「1799年勅令」を出した。これはパーヴェル1世が暗殺される直前であった。露米会社は20年間にわたりアメリカ大陸北西部の北緯55度以北の海岸地帯、アラスカからカムチャツカに伸びるアリューシャン列島、およびカムチャツカから南へ伸びる千島列島の統治を許可された。小規模な交易会社や毛皮商人をこの地の毛皮交易から押し出した露米会社の勅許は、総支配人レザノフおよび会社の出資者だった皇族やシェリホフ家に多大な収入をもたらしたが、まもなく管理の失敗と食糧不足でアラスカ方面の統治は混乱し、会社は大きな損失を出した。
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