露無文治とは? わかりやすく解説

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露無文治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/04 04:17 UTC 版)

露無文治(前列右端、1891年)

露無 文治(つゆむ ぶんじ、慶応2年2月18日1866年4月3日) - 昭和16年(1941年2月22日)は日本組合基督教会牧師である。

1866年(慶応2年)備中国倉敷天城に久次郎、せん子の子として生まれる。1882年(明治15年)岡山市に出て原泉学舎で漢学を学び、オティス・ケーリ金森通倫によりキリスト教に接する。

新聞で新島襄の経歴を読んで渡米することを志すが、天城教会亀山昇から同志社に行くように勧められ、同志社英学校に入学した。在学中に、京都第二公会(現・日本基督教団同志社教会)でアメリカンボードJ・D・デイヴィスから洗礼を受ける。

在学中、同志社英学校で開催された第1回夏季学校の記録を編集して、『学生之大会』を刊行する。また、在学中に新島が死去する。新島の死に非常なショックを受け、「八日間の出来事」として書き残している。在学中に、牧野虎次山室軍平と共に「祈りのバンド」というグループを結成する。

1891年(明治23年)に同志社神学校を卒業して、姫路教会(現・日本基督教団姫路和光教会)に主任伝道師として赴任する。1895年(明治28年)に高松教会に転任し、1896年(明治29年)に今治教会(現・日本基督教団今治教会)の牧師に就任する。

1901年(明治34年)より1903年(明治36年)までアメリカ合衆国ユニオン神学校1911年(明治44年)より1年間スコットランドエディンバラニューカレッジ英語版に留学する。

1916年(大正5年)日本ホーリネス教会監督の中田重治を今治に招いて講演する。

1927年(昭和2年)に今治教会を退任する。

著書

  • 『基督教之本原真理』(1908年)
  • 『基督教修一班』(1914年)

参考文献

  • 『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年

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