露米会社の経営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 15:55 UTC 版)
露米会社の経営は最初から厳しく、食糧難で入植地は崩壊寸前となり会社は大きな損失を出した。レザノフはアラスカの維持のためにはまず日本との交易が必要と考え、自らペテルブルクから長崎へ来航したが鎖国中であり不調に終わった。半年を長崎で待った後、彼はカムチャツカ経由でアラスカに向かった。レザノフは現地の規律を立て直し、食糧難解決のために今度は南方のスペイン領アルタ・カリフォルニアへ向かい食料調達と交易確立を図ったが、彼の死によりスペインとロシアの条約締結はならなかった。 バラノフは1818年に総督から退きロシアに帰る途中で病死した。同年、ロシア政府が露米会社の経営権を商人たちから取り上げ海軍士官たちが経営を行ったが、彼らの多くは毛皮交易については無知であり経営は傾いた。しかしこの時期の露米会社で傑出した人物には、探検家・海軍士官のフェルディナント・フォン・ウランゲルがいる。彼は1830年から1835年にかけて露米会社でアラスカ総督を務め、1840年から1849年まで首都ペテルブルクで露米会社支配人になり、入植地を立て直しライバルのイギリス商人やアメリカ商人らと競争した。 露米会社はアラスカ全土を実効支配できず海岸部の支配にとどまり、1830年代以降はイギリスのハドソン湾会社やアメリカ人のハンターらがカナダ方面から内陸部を伝って進出し、アラスカの毛皮交易に参入して露米会社のライバルとなった。ラッコなどの毛皮はアラスカからシベリアを横断してロシアに向かうため、輸送料が高くつくのも悩みの種だった。また露米会社の弱点である食糧難は解決できず、ロシア人の入植地は太平洋を航海するアメリカ人の船による補給に頼っていた。しかも1821年の新たな勅許は競争相手である海外勢力との接触を禁じていたため、食糧を補給し毛皮を買ってくれるアメリカ船とのつながりが断たれた。結果、露米会社は、アラスカ沿岸を通って北極海に出る航路をハドソン湾会社に認める代わりに同社と協定を結んだ。 1840年代も露米会社にとり厳しい時期だった。海岸部の先住民たちは露米会社のもとで厳しい労働を強いられていた。アリュート人はアリューシャン列島からアラスカ本土へ移され、ラッコ狩りや軍務などに従事していたが、その人口は疫病や労役で減少傾向にあった。またトリンギット族は露米会社に服従せず何度も入植地を攻撃した。しかしこの時期から露米会社を経営する海軍士官たちは学校や病院の建設を行い生活向上の努力をしたため人口は回復し始めた。 アラスカの聖ゲルマン(ハーマン)、アラスカの聖インノケンティ、モスクワ総主教聖ティーホンといったロシア正教会の聖職者たちもアラスカに入り、毛皮商人の先住民への虐待を止める一方で、先住民に対し現地文化や共同体を重んじた布教をおこなったため、先住民の入信者が増加した。アリューシャン列島などでは今日でもアメリカ正教会に属する聖堂が多く建っており正教徒も多い。
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