善六
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善六(ぜんろく、明和6年(1769年) - 文化13年(1816年)頃)とは江戸時代後期の船乗り(水主)である。ロシア帝国に漂着してロシアに帰化し、日本語の通訳となった。
注釈
- ^ ただしグレートブリテン島やハワイについては上陸していないため、最初にグレートブリテン島に上陸した日本人は天保3年(1835年)の音吉ら宝順丸漂流民3名、ハワイに上陸した日本人は文化3年(1806年)の平原善松ら稲若丸漂流民8名である。しかし両地域ともそれ以前に訪れた日本人がいるという異説もある。
出典
- ^ a b “【移民107周年】「石巻若宮丸漂流民」 日本人伯国初上陸の歴史背景 : サンパウロ新聞”. サンパウロ新聞. (2015年6月20日) 2017年3月22日閲覧。
- ^ 石川榮吉「接触と変容の諸相 : 江戸時代漂流民によるオセアニア関係史料」『国立民族学博物館研究報告別冊』第006巻、国立民族学博物館、1989年、 429-456頁、 doi:10.15021/00003744、 hdl:10502/3443、 ISSN 0288-190X、 NAID 110004413389。
- ^ 吉村, p. 49.
- ^ 吉村, p. 50.
- ^ 吉村, p. 54.
- ^ 吉村, p. 57.
- ^ 吉村, p. 59.
- ^ 吉村, p. 62-63.
- ^ 吉村, p. 64-67.
- ^ a b 吉村 p67
- ^ 吉村, p. 68.
- ^ 吉村, p. 69.
- ^ 最後発組の中の一人である市五郎という水主は、途中のヤクーツクで病死した。(吉村, p. 71)
- ^ 吉村, p. 72.
- ^ 吉村, p. 73-74.
- ^ 吉村, p. 76.
- ^ 吉村, p. 80-81.
- ^ 魯西亜から来た日本人, p. 70.
- ^ そのため、後に帰国した津太夫らは銀三郎はペルミで死んだものと思い込んでいた。(魯西亜から来た日本人, p. 76-77)
- ^ 異説あり。5月23日到着とも。(魯西亜から来た日本人, p. 77)
- ^ イルクーツク滞在時にすでに面識があったとする説もある。(魯西亜から来た日本人, p. 65-66)
- ^ 吉村, p. 105.
- ^ 吉村, p. 108<.
- ^ 吉村, p. 110-111.
- ^ 随行した天文学者に噛みついたとの説もある。(魯西亜から来た日本人, p. 115)
- ^ ジョセフはハワイで下船し、別の船に便乗してマルケサスに帰るつもりであったが、ハワイでは上陸できなかったため、そのままペテロパウロフスクを経由してフランスに帰った。フランスではマルケサス諸島民の物真似を見世物小屋で見せて生活費を稼ぎ、1818年~1822年頃に亡くなった。(魯西亜から来た日本人, p. 122)
- ^ 吉村, p. 120.
- ^ 吉村, p. 121-123.
- ^ a b “魯西亜から来た日本人 ―善六と函館”. 函館日ロ交流史研究会. 2015年3月8日閲覧。
- ^ 魯西亜から来た日本人, p. 149.
- ^ ピョートル・リコルド 1985, p. 278.
- ^ ピョートル・リコルド 1985, p. 282.
- ^ ピョートル・リコルド 1985, pp. 286–287.
- ^ ピョートル・リコルド 1985, p. 294.
- ^ オホーツクのこと。
- ^ ピョートル・リコルド 1985, pp. 303–305.
- ^ ピョートル・リコルド 1985, p. 306.
- ^ 村上は幽閉中のゴローニンからロシア語を習い、その発音は完璧であった(魯西亜から来た日本人, p. 201)
- ^ “函館市史通説編第1巻 pp.481-482”. 函館市中央図書館. 2015年3月8日閲覧。
- ^ ピョートル・リコルド 1985, p. 325.
- ^ ピョートル・リコルド 1985, pp. 325–326.
- ^ イルクーツクのこと
- ^ 魯西亜から来た日本人, p. 211.
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