生い立ちと漂流の経緯
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孫太郎は延享元年(1744年)に福岡藩領筑前国志摩郡唐泊浦(現:福岡県福岡市西区宮浦)で生まれた。 宝暦13年(1763年)10月6日、孫太郎は五カ浦廻船所属の伊勢丸(20人乗り 1600石)の乗組員として唐泊から大坂に向かった。伊勢丸は当時五カ浦廻船でも最大級の新造船であり、船頭は船主である青柳文八の息子である青柳十右衛門(重右衛門とも)がつとめていたが、十右衛門はまだ18歳であったため、船の指揮権は船親仁(甲板長)の仁兵衛と楫取(航海長)の新七が事実上握っていた。 伊勢丸は福岡藩の藩米を大坂に輸送した後、豊前国中津(現:大分県中津市)に戻り年を越し、翌明和元年(1764年)2月16日、中津藩の藩米を積んで江戸に向かった。江戸には4月頃に到着し、4月6日には津軽藩の依頼を受けて江戸と青森の間を往復して米を運んだ後、6月に再び江戸を出航し津軽に向かった。この航海の途中、鹿島灘で炊(かしき 船員見習い)の源蔵が海に落ちて行方不明となった ため、途中で寄港した南部藩領才の浦で貞五郎という者を新たに雇った。その後伊勢丸は津軽藩領小泊(現:青森県北津軽郡中泊町小泊)で材木を積み、8月頃に箱館に寄港した。しかし、箱館では長作という船員が船の金を盗んで宿屋の娘と駆け落ちしたため、伊勢丸の船員の士気は著しく低下することになった。結局長作は見つからず、伊勢丸は江戸に向かうために箱館を出航し、8月24日に仙台藩領水崎小浦に寄港した。一行はここで源蔵の供養をするために僧を呼ぶと同時に長作の代わりとなる者を探し、新たに金碇長太という者を雇った。 伊勢丸は水崎小浦を10月4日深夜に出航し、15日朝に箒木浦(現:宮城県石巻市福貴浦)に入港した。ここで風待ちのため数日滞在した後、10月20日早朝に箒木浦を出航したのだが、その日の夕方、塩屋埼(現:福島県いわき市)沖を航行中に嵐に遭遇した。そのため、乗組員たちは全員で集まって相談したのだが、江戸に向かうべきと主張する船親仁の仁兵衛と、港に戻るべきと主張する楫取の新七の間で意見が割れた。幹部たちの対立に孫太郎たち平船員は口を出すことはできず、18歳の船頭である十右衛門も口を挟むことができなかった。伊勢丸の意見がまとまらない間に、近海を航行中の他の船はほとんど避難を終え、残されたのは伊勢丸と残島(能古島)の村丸だけとなっていた。 日没後、風と波は更に激しさを増し、伊勢丸は村丸とも散り散りになった。船への浸水は激しく、積荷の材木を海中に捨てても船への浸水は止まらなかった。この時の嵐のことを後に孫太郎は、 「雨と鹽とに身をひたし、手足も氷りて働れず。雷の音、波の音は、天地も崩れるかと凄じく、烈風彌(いよいよ)火のごとく、雨を燃せるかと稻光は、誠に火の風火の雨也。燈(あかり)きへて(原文ママ)大ぐれん(紅蓮)熱火しやうねつ(焦熱)の苦しみも、斯(か)くやと思ふ斗也(ばかりなり)。金輪ならく(奈落)に沈かと思へば、空に浮上り、うきぬ沈みぬ苦しさは、いかなる地獄のかしやく(呵責)をも、斯(かく)はあらしと悲しみける」【現代語訳=雨水と海水に身体をひたし、手足はかじかんで動けなくなった。雷の音や波の音はまるで天地が崩れたかのようにすさまじく、強風はますます火のように強くなり、稲光はまるで雨を燃やせるかのようで、本当に火の風火の雨のようであった。船のあかりも消え、焦熱地獄の苦しみとはまるでこのような感じなのではと思った。(船は波によって)奈落の底に沈んだかと思えば、空中へと浮き上がり、この浮いたり沈んだりのつらさで、どのような地獄の責め苦であっても、このようであるに違いないと悲観した。】 — 『漂流天竺物語』 と述べている。この嵐によって翌21日に伊勢丸の舵は流され航行不能となり、乗組員たちは船のバランスを保つためにマストを切り倒すと同時に、船板で代用の舵を作った。しかしその舵も23日未明までに流されてしまい、伊勢丸は完全に航行不能となった。 嵐は11月に入った頃にようやく止んだが、伊勢丸は西風によって太平洋上を東南に流され続けた。しかし12月14日に風が止んだことにより、伊勢丸は北赤道海流に乗り、今度は西に流されるようになった。この頃、仁兵衛は塩屋埼沖での事に対して責任を感じて自殺を図るのだが、新七をはじめ他の船員に励まされ、自殺を思い留まった。これ以降、伊勢丸の乗組員の結束は固くなり、食糧の米が残り少なくなった時も、雪駄の裏皮を使ってルアーを作り、魚を釣って乗り切ったり、時に冗談を言い合って互いに慰め合った。 しかし12月下旬になると穀物と飲料水の不足はさらに激しくなり、乗組員たちは昆布の入った水1斗(18.039リットル)に米2升(約3.6リットル 20合)が入った粥を20人で分けた。この頃になると乗組員全員が飢え死にを覚悟し、「水を飲んでいないのに常に涙がこぼれている」状態となった。
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生い立ちと漂流の経緯
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宝暦8年(1758年)に伊勢亀山藩領伊勢国河曲郡南若松村(現:三重県鈴鹿市)に生まれる。 天明2年(1782年)12月13日、大黒屋光太夫(以下、「光太夫」と記す)を船頭とし、新蔵が乗り組んでいた神昌丸は乗組員15名、荷主1名、光太夫の飼い猫1匹を乗せて白子(現三重県鈴鹿市白子町)を出港し、江戸に向かった。しかし、12月14日に神昌丸は遠州灘で難破し、8か月後の天明3年(1783年)7月20日にアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着した。 アムチトカ島ではアリュート人に助けられ、ロシア人と共に暮らすようになる。新蔵は島でロシア人と暮らすうちにロシア語を習得し、一行の中で最もロシア語の習得が早かったとされている。しかし、アムチトカ島で神昌丸漂流民は次々と病死し、天明5年(1785年)1月の時点で一行は9人に減っていた。 天明7年(1787年)7月18日に9人と猫1匹はロシア人達とともに島を脱出し、ブリジニエ諸島、コマンドルスキー諸島を経て、8月23日にカムチャツカ半島のウスチカムチャツク(英語版)に到着した。9人は迎えに来たロシア軍の少佐と共にニジニカムチャツク(ロシア語版)に移動し、9人はロシア人の家に下宿した。食糧は現地の守備隊から配給されていたが、冬になり、オホーツクからの船舶輸送が滞るようになると深刻な食糧不足に襲われ、翌年の5月までに3名が病死した。 天明8年(1788年)6月15日、6人はニジニカムチャツクを離れ、カムチャツカ半島を横断してチギーリ(英語版)に着き、ここから船に乗り、オホーツクには8月30日に到着した。その後、6人はオホーツクを12月13日に発ち、寛政元年(1789年)2月9日にイルクーツクに到着した。なお、この途中で庄蔵は凍傷にかかり、片足を切断した。不自由な身体となった庄蔵はこのことが原因で、いち早く正教の洗礼を受け、名前をフョードル・スチェパーノヴィチ・シトニコフ(ロシア語: Фёдор Степанович Ситников)に改め、ロシアに帰化した。 イルクーツクではロシア人の鍛冶屋に下宿した。なお、この年の春には延享2年(1745年)5月に千島列島の温禰古丹島に漂着した多賀丸漂流民の遺児たちと会い、日本語で交流した。
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生い立ちと漂流の経緯
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善六は明和6年(1769年)、仙台藩領陸奥国牡鹿郡石巻(現:宮城県石巻市)に生まれた。 寛政5年(1793年)11月27日、善六は若宮丸(16人乗り)の乗組員として石巻から江戸に向かった。若宮丸は石巻を出た後、東名浦(現宮城県東松島市)に寄港し、ここで順風を得て11月29日に東名浦を出帆した。若宮丸は順調に南下したが、塩屋埼(現:福島県いわき市)沖で南西からの強風に遭遇したために、広野(現:福島県双葉郡広野町)沖で仮泊した。 12月1日になっても南からの風はやまなかったため、一行は石巻に引き返すことも考えたが、翌12月2日に風向きが変わったため、若宮丸は再び江戸に向けて出帆した。しかし、再び塩屋埼沖に差し掛かったあたりで暴風雨に遭遇し、若宮丸の舵は破損、船のコントロールが効かなくなった。その後、一行は7ヶ月の漂流の末に寛政6年(1794年)5月10日の朝にアリューシャン列島東部の島に漂着した。島では先住民のアリュート人に助けられたが、6月8日に船頭の平兵衛が病死した。 6月12日、15人はアリュート人の案内でロシア人のもとに案内された。それからの11ヶ月間はロシア人の家で暮らした後、本土に帰るロシア人と共に島を離れ、プリビロフ諸島のセントポール島、アムチトカ島を経て寛政7年(1795年)6月27日にオホーツクに着いた。ここで生き残った若宮丸漂流民15人はくじ引きで3隊に分けられ、善六は辰蔵、儀兵衛と共に最初のグループに加わり、8月18日にオホーツクを出発した。
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