生い立ちと漂流の経緯とは? わかりやすく解説

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生い立ちと漂流の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 13:55 UTC 版)

孫太郎」の記事における「生い立ちと漂流の経緯」の解説

孫太郎延享元年1744年)に福岡藩筑前国志摩郡泊浦(現:福岡県福岡市西区宮浦)で生まれた宝暦13年1763年10月6日孫太郎五カ浦廻船所属伊勢丸20乗り 1600石)の乗組員として唐泊から大坂向かった伊勢丸当時五カ浦廻船でも最大級新造船であり、船頭船主である青柳文八の息子である青柳右衛門(重右衛門とも)がつとめていたが、十右衛門はまだ18歳であったため、船の指揮権は船親仁甲板長)の仁兵衛取(航海長)の新七が事実上握っていた。 伊勢丸福岡藩の藩米を大坂輸送した後、豊前国中津(現:大分県中津市)に戻り年を越し、翌明和元年1764年2月16日中津藩の藩米を積んで江戸向かった江戸には4月頃に到着し4月6日には津軽藩依頼受けて江戸青森の間を往復して米を運んだ後、6月に再び江戸出航し津軽向かった。この航海途中鹿島灘で炊(かしき 船員見習い)の源蔵が海に落ちて行方不明となった ため、途中で寄港した南部藩領才の浦で貞五郎という者を新たに雇ったその後伊勢丸津軽藩小泊(現:青森県北津軽郡中泊町小泊)で材木積み8月頃箱館寄港した。しかし、箱館では長作という船員が船の金を盗んで宿屋の娘と駆け落ちしたため、伊勢丸船員士気著しく低下することになった結局長作は見つからず伊勢丸江戸に向かうために箱館出航し8月24日仙台藩領水崎小浦寄港した一行はここで源蔵供養をするために僧を呼ぶと同時に長作代わりとなる者を探し新たに金碇長太という者を雇った伊勢丸水崎小浦10月4日深夜出航し15日朝に箒木浦(現:宮城県石巻市福貴浦)に入港した。ここで風待ちのため数日滞在した後、10月20日早朝箒木浦を出航したのだが、その日夕方塩屋埼(現:福島県いわき市)沖を航行中に嵐に遭遇した。そのため、乗組員たちは全員集まって相談したのだが、江戸に向かうべきと主張する親仁の仁兵衛と、港に戻るべきと主張する取の新七の間で意見割れた幹部たち対立孫太郎たち平船員は口を出すことはできず、18歳船頭である十右衛門口を挟むことができなかった。伊勢丸意見がまとまらない間に、近海航行中の他の船はほとんど避難終え残されたのは伊勢丸と残島(能古島)の丸だとなっていた。 日没後、風と波は更に激しさ増し伊勢丸丸とも散り散りになった。船への浸水激しく積荷材木海中捨てても船への浸水は止まらなかった。この時の嵐のことを後に孫太郎は、 「と鹽とに身をひたし、手足氷りて働れず。の音、波の音は、天地崩れるかと凄じく、烈風彌(いよいよ)火のごとく、を燃せるかと稻光は、誠に火の風火の也。燈(あかり)きへて(原文ママ)大ぐれん(紅蓮)熱火しやうねつ(焦熱)の苦しみも、斯(か)くやと思ふ斗也(ばかりなり)。金輪ならく(奈落)に沈かと思へば、空に浮上り、うきぬ沈み苦しさは、いかなる地獄かしやく(呵責)をも、斯(かく)はあらしと悲しみける」【現代語訳雨水海水身体をひたし、手足かじかんで動けなくなったの音や波の音はまるで天地崩れたかのようにすさまじく強風はますます火のように強くなり、稲光はまるで燃やせるかのようで、本当に火の風火ののようであった。船のあかりも消え焦熱地獄苦しみとはまるでこのような感じなのではと思った。(船は波によって)奈落の底沈んだかと思えば空中へと浮き上がり、この浮いた沈んだりのつらさで、どのような地獄責め苦であってもこのようであるに違いない悲観した。】 — 『漂流天竺物語』 と述べている。この嵐によって翌21日伊勢丸の舵は流され航行不能となり、乗組員たちは船のバランスを保つためにマスト切り倒す同時に船板代用の舵を作った。しかしその舵も23日未明までに流されてしまい、伊勢丸は完全に航行不能となった。 嵐は11月入った頃にようやく止んだが、伊勢丸西風によって太平洋上を東南流され続けた。しかし12月14日に風が止んだことにより、伊勢丸北赤道海流乗り今度は西に流されるようになったこの頃、仁兵衛塩屋埼沖での事に対して責任感じて自殺を図るのだが、新七をはじめ他の船員励まされ自殺思い留まった。これ以降伊勢丸乗組員結束固くなり、食糧の米が残り少なくなった時も、雪駄の裏皮を使ってルアー作り釣って乗り切ったり、時に冗談言い合って互いに慰め合った。 しかし12月下旬になると穀物飲料水の不足はさらに激しくなり、乗組員たちは昆布入った1斗(18.039リットル)に米2升(約3.6リットル 20合)が入った粥を20人で分けたこの頃になると乗組員全員飢え死に覚悟し、「飲んでいないのに常に涙がこぼれている」状態となった。

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生い立ちと漂流の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 15:12 UTC 版)

新蔵」の記事における「生い立ちと漂流の経緯」の解説

宝暦8年1758年)に伊勢亀山藩伊勢国河曲郡南若松(現:三重県鈴鹿市)に生まれる。 天明2年1782年12月13日大黒屋光太夫(以下、「光太夫」と記す)を船頭とし、新蔵乗り組んでいた神昌丸は乗組員15名、荷主1名、光太夫飼い猫1匹を乗せて白子(現三重県鈴鹿市白子町)を出港し江戸向かった。しかし、12月14日に神昌丸は遠州灘難破し、8か月後の天明3年1783年7月20日アリューシャン列島アムチトカ島漂着したアムチトカ島ではアリュート人に助けられロシア人と共に暮らすようになる新蔵は島でロシア人と暮らすうちにロシア語習得し一行の中で最もロシア語習得早かったとされている。しかし、アムチトカ島で神昌丸漂流民は次々と病死し天明5年1785年1月時点一行は9人に減っていた。 天明7年1787年7月18日に9人と1匹はロシア人とともに島を脱出しブリジニエ諸島コマンドルスキー諸島経て8月23日カムチャツカ半島のウスチカムチャツク(英語版)に到着した。9人は迎えに来たロシア軍少佐と共にニジニカムチャツク(ロシア語版)に移動し、9人はロシア人の家に下宿した食糧現地守備隊から配給されていたが、冬になり、オホーツクからの船舶輸送滞るうになる深刻な食糧不足襲われ翌年5月までに3名が病死した。 天明8年1788年6月15日、6人はニジニカムチャツクを離れカムチャツカ半島横断してチギーリ(英語版)に着きここから船に乗りオホーツクには8月30日到着したその後、6人はオホーツク12月13日発ち寛政元年1789年2月9日イルクーツク到着した。なお、この途中で庄蔵凍傷にかかり、片足切断した。不自由な身体となった庄蔵はこのことが原因で、いち早く正教洗礼を受け、名前をフョードル・スチェパーノヴィチ・シトニコフ(ロシア語: Фёдор Степанович Ситников)に改めロシア帰化したイルクーツクではロシア人鍛冶屋下宿した。なお、この年春に延享2年1745年5月千島列島温禰古丹島漂着した多賀漂流民の遺児たちと会い日本語交流した

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生い立ちと漂流の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 13:50 UTC 版)

善六」の記事における「生い立ちと漂流の経緯」の解説

善六明和6年1769年)、仙台藩領陸奥国牡鹿郡石巻(現:宮城県石巻市)に生まれた寛政5年1793年11月27日善六若宮丸16乗り)の乗組員として石巻から江戸向かった若宮丸石巻出た後、東名浦(現宮城県東松島市)に寄港し、ここで順風得て11月29日東名浦を出帆した若宮丸順調に南下したが、塩屋埼(現:福島県いわき市)沖で南西からの強風遭遇したために、広野(現:福島県双葉郡広野町)沖で仮泊した。 12月1日になっても南からの風はやまなかったため、一行石巻に引き返すことも考えたが、翌12月2日風向き変わったため、若宮丸は再び江戸向けて出帆した。しかし、再び塩屋埼沖に差し掛かったあたりで暴風雨遭遇し若宮丸の舵は破損、船のコントロールが効かなくなったその後一行は7ヶ月漂流の末に寛政6年1794年5月10日の朝にアリューシャン列島東部の島に漂着した。島では先住民アリュート人に助けられたが、6月8日船頭の平兵衛病死した。 6月12日15人はアリュート人の案内ロシア人のもとに案内された。それからの11ヶ月間はロシア人の家で暮らした後、本土帰るロシア人と共に島を離れプリビロフ諸島セントポール島アムチトカ島経て寛政7年1795年6月27日オホーツク着いた。ここで生き残った若宮丸漂流15人はくじ引きで3隊に分けられ善六辰蔵儀兵衛と共に最初グループ加わり8月18日オホーツク出発した

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