生い立ちと活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 20:52 UTC 版)
「リヒャルト・ミュールフェルト」の記事における「生い立ちと活躍」の解説
ザルツンゲンの都市楽師(Stadtmusikus)であったレオンハルト・ミュールフェルト(Leonhard)の第4子として生まれ、音楽的な家庭環境のもとにヴァイオリンやピアノ、クラリネットの早期教育を受けて成長する。19世紀末まではとりたてて目立つ例というわけではないが、クラリネットは独学であった。さらに地元ザルツンゲンの聖歌隊にも加わっている。 1873年よりマイニンゲン公爵の宮廷楽団に入団し、当初は第2ヴァイオリン担当に属するが、すぐさまクラリネット奏者に指名され、しばしば首席クラリネット奏者の代役を果たした。3年間の兵役中には、軍楽隊の首席クラリネット奏者を務めた。この間も冬になると帰休せられ、宮廷楽団の補助団員を務めることができた。 1879年10月に、マイニンゲン宮廷楽団の首席クラリネット奏者の地位を占める。ミュールフェルトにとって有益なことに、1880年にハンス・フォン・ビューローが宮廷楽団の音楽監督としてマイニンゲンに赴任し、これによって宮廷楽団が精鋭オーケストラに鍛え上げられるとともに、ザクセン=マイニンゲン公国の国境の外でもその名声を轟かせるようになった。かくてミュールフェルトもマイニンゲン宮廷楽団の一員として、数多くの演奏旅行に加わり、ドイツ内外のヨーロッパ各地を訪れた。 1881年にミンナ・ザイフェルト(Minna Seyfert)と結婚して2児を儲ける。1883年にザクセン=マイニンゲン公ゲオルク2世から宮廷演奏家の称号を授与され、1890年には宮廷楽長に昇格された。この頃にはソリストとしてますます盛んに活躍するようになった。 1876年にマイニンゲン宮廷楽団の同僚とともに、ハンス・リヒターの指揮の下にバイロイト音楽祭の「杮落としの指環」に出演し、1884年からは12年間にわたってバイロイト祝祭管弦楽団の首席クラリネット奏者を務める傍ら、バイロイトでは、ヘルマン・レヴィやフェリックス・モットル、リヒャルト・シュトラウスと並ぶ指揮者としても活動した。 1904年からたびたび大病に苛まれるようになり、潜行性の腎臓の機能不全に陥って脳梗塞を起こした後、ついに1907年6月1日に帰らぬ人となった。亡骸はマイニンゲン霊園(ドイツ語版)に埋葬されている。 実兄でマイニンゲンの音楽史研究家のクリスティアン(Christian Mühlfeld、1849 - 1932)が記録したところによると、リヒャルト・ミュールフェルトは、31年にわたる活動期間に138ヵ所で645回の演奏会を行なった。また、管弦楽団員としての活動の傍ら、マイニンゲン男声合唱団を指揮し、ピアノ教師としても働いた。
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