漂流民たちとの交流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 13:50 UTC 版)
文化元年(1804年)9月中旬、ペトロパブロフスク滞在中の善六のもとに6人の漂流民が送られてくる。6人は7月18日に千島列島の幌筵島に漂着した慶祥丸漂流民たちで、善六は6人を港で出迎えた後、継右衛門と岩松の2人を家に引き取った。 善六は通訳を引き受けたり、他の家に暮らす4人の様子を見に行くなどして、滞在中の慶祥丸漂流民たちを世話した。そして、当時のペトロパブロフスクでは日本とロシアの国交がもうすぐ樹立されるという見方が大半であったため、善六は国交が樹立されれば日本に帰れるだろうと漂流民たちを励ました。 しかし、翌文化2年(1805年)5月に帰ってきたレザノフたちから日本との通商交渉決裂を知り、慶祥丸漂流民へのロシア政府の対応も一変する。善六はこの時期自暴自棄となり、日本のことを悪く言うようになった。それと同時に、善六は慶祥丸漂流民たちに対し、帰化して他の漂流民たちもいるイルクーツクに行くことを勧め始めたが、慶祥丸漂流民たちは千島列島沿いに南下して日本に帰ることを考えていた。 ある日、慶祥丸漂流民たちは脱走して日本に帰国することを善六に伝えた。善六は無謀だとして反対し、改めてイルクーツク行きをすすめたが、慶祥丸漂流民たちの帰国の意思はかたく、善六は説得をあきらめた。それ以降の善六は、船や食糧の調達にあたったり、役所に根回しをするなどして慶祥丸漂流民の帰国のために協力を惜しまなかった。 6月中旬、船頭の継右衛門が風向きの変化を感じ取り、慶祥丸漂流民たちは帰国することを決意した。そしてこの日の夜、挨拶回りを済ませた慶祥丸漂流民たちは浜辺に向かった。浜辺には小舟が用意され、善六が慶祥丸漂流民たちを見送った。善六は別れ際「なかなか日本まで帰国するのは難しい」と言い、お互いに別れを告げた。 善六は翌年の春までペトロパブロフスクに滞在し、その後イルクーツクに帰った。イルクーツクで善六はアンガラ川の河口の近くの家に住み、銅銭20貫文(200ルーブル)が与えられるようになった。 文化9年(1812年)1月には、善六のもとに択捉島で捕虜になった中川五郎治(以下、「五郎治」と記す)が送られてくる。五郎治は2月までイルクーツクの善六の家に滞在するが、復活祭の祭りの時に教会に行こうと善六が誘った時も頑として拒否するなど、五郎治はロシア人や善六に決して心を開かなかった。
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