善六との出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/09/06 04:37 UTC 版)
文化元年(1804年)9月中旬、6人はペテロパウロフスクに到着した。入港後、6人は突然日本語で呼びかけられ、呼びかけに応じて継右衛門が一人で先に下船すると、そこには10年前の寛政6年(1794年)5月10日にロシアに漂着した若宮丸漂流民の善六がいた。善六は自分が6人の世話をすることになったと継右衛門に告げ、ペテロパウロフスク上陸後、継右衛門と岩松の2人は善六の家に居候することになった。 一方、他の4人はロシア商人の家に預けられるが、家人とそりが合わず、小屋を建てて家を出た。しかし、冬の到来とともに小屋には猛烈な寒波が襲い、見かねたロシア人の船長が4人を引き取り、4人はここで魚採りや薪集めなどの仕事を手伝った。 当時のペテロパウロフスクはニコライ・レザノフ率いる遣日使節が日本に向けて出発した直後であり、商人やロシア政府の役人の間では日露国交の樹立間近と言われていた。そのため、6人は12月にカムチャツカ長官と面会した際に、国交が樹立されれば日本に送還すると言われ、また6人の世話をしていた善六も同様のことを口にしていた。 しかし文化2年(1805年)5月、ペテロパウロフスクに帰ってきたレザノフたちから日本との通商交渉決裂を知り、状況は一変する。6人への風当たりは厳しいものとなり、配給が滞るようになった上に、道を歩くと日本人というだけで罵られるようになった。そのため、6人はペテロパウロフスクを脱走し、千島列島沿いに南下して日本に帰ることを考え始める。 相談の末、6人は脱走して日本に帰ることを善六だけに伝えた。善六は6人のこの案に猛反対し、他の漂流民たちもいるイルクーツクに行くことをすすめたが、6人はイルクーツク行きを頑なに拒否した。最終的に6人の決意が揺らがないことを知った善六が折れて、6人のために船や食糧の調達にあたるなど、帰国のための協力をした。 6月中旬、風向きが変わったことから、継右衛門は日本に向けて出港することを決意する。6人は滞在中に世話になった船長や役人たちに挨拶にまわり、この時食糧以外の衣類や日用品をすべて返却した。そしてこの日の夜、浜辺には小舟が用意され、善六ひとりが6人を見送った。善六は別れ際「日本に帰るのは難しい」と言って、6人を見送った。
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