善光寺町の形成
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善光寺町は中世期に甲斐善光寺の建立に伴い計画的に成立した門前町で、中世の武田城下町、近世の甲府城下町に含まれ、中世から近世へと連続的に継承された町場として知られる。善光寺町は甲斐善光寺の創建に伴い建設された計画的な街場で、信濃善光寺町と甲斐善光寺町は寺庵の構成や本町と横町によるT字型の街路構成や規模などの点で共通性を持つことが指摘される。 近世期における善光寺の境内は、本堂を取り囲む供僧屋敷や塔頭が立地している如来敷地(境内)と参道、本堂北側の本坊、庫裏、書院などが所在する本坊屋敷(大勧進屋敷)、三門外の「三門外坊舎屋敷」「白袴屋敷」から成る供僧屋敷、および耕地や山林で構成される。 「甲斐善光寺文書」に含まれる慶長6年(1601年)の拝領免許地の面積は1万364坪と1万3500坪の二種類の数値が記録されており、後者は参道の面積を含むものであると考えられている。また、元禄3年(1690年)の町絵図(甲府町年寄・坂田家文書)に拠れば、甲州街道から参道の入口には木戸が存在していた。 戦国期には、天正9年(1581年)武田勝頼定書(善光寺大本願・栗田文書)に拠れば、善光寺町は善光寺別当・栗田氏の支配で、町屋敷は諸役を免許され近世期の上宿の前身となった上町では門前市が開催されていたことが記されている。天正期の徳川家康・羽柴秀勝・加藤光泰らの寄進状、文禄3年(1594年)浅野幸長寄進状などがあり、戦国期・近世初頭の天正から文禄年間には善光寺町一円が善光寺の所領であったと考えられている。 慶長6年(1601年)の「善光寺町屋敷帳」(山梨県立博物館所蔵)に拠れば、戦国期の善光寺町は、本町に大規模な短冊形地割の屋敷地が均質に分布している。屋敷地は三門内にも分布し、この点は後述の貞享期の町並に見られる二極分化が起きていないことが指摘される。 近世後期における善光寺町は、文化3年(1808年)『甲州道中分間絵図』に拠れば甲州街道から分岐する参道(大門通)に沿って門前町が再形成されている。門前町は三門前の上宿、木戸の配置された本宿、木戸外にあたる街道沿いの板垣村から構成され、天正・文禄期と異なり三門付近と甲州街道沿いに分離した空間構成を特徴としている。こうした景観は元禄3年の町絵図でも同様であり、17世紀後半段階から形成されたものであると考えられている。 また、貞享元年(1684年)の検地帳「甲州万力筋板垣村御検地」(山梨県立博物館所蔵)に拠れば、三門内の供僧屋敷が善光寺境内地に含まれているのに対し、三門外・木戸内の上町・本町は板垣村に含まれ村方支配となっていたことが確認される。文禄期から貞享期にかけて善光寺町は分離し、屋敷群が三門前と街道沿いに二極分化していたと考えられている。 屋敷地割は全体的に表間口が狭く奥行きの深い短冊形地割が多いが、屋敷規模は甲州街道沿いよりも上宿・本宿の方が大きいことが指摘される。住民構成に関しても上宿・本宿は屋敷規模の大きい年寄層や大工棟梁など有力町人が居住するのに対し、三門内には屋敷規模が小さく、善光寺に供奉する供僧・平坊主僧が多く居住する対比が指摘される。 江戸後期の甲斐国地誌・『甲斐国志』に拠れば、こうした門前町の空間構成は甲州道中の整備に伴い参道付近の「本郷」と呼ばれる地域から住民が街道沿いに移住したため形成されたという。
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