善光寺町の形成とは? わかりやすく解説

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善光寺町の形成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 21:45 UTC 版)

甲斐善光寺」の記事における「善光寺町の形成」の解説

善光寺町中世期甲斐善光寺建立に伴い計画的に成立した門前町で、中世武田城下町近世甲府城下町含まれ中世から近世へと連続的に継承され町場として知られる善光寺町甲斐善光寺の創建に伴い建設され計画的な街場で、信濃善光寺町甲斐善光寺町は寺庵の構成本町横町によるT字型の街路構成規模などの点で共通性を持つことが指摘される近世期における善光寺境内は、本堂取り囲む供僧屋敷塔頭立地している如来敷地境内)と参道本堂北側本坊庫裏書院などが所在する本坊屋敷大勧進屋敷)、三門外の「三門坊舎屋敷」「白袴屋敷から成る供僧屋敷、および耕地山林構成される。 「甲斐善光寺文書」に含まれる慶長6年1601年)の拝領免許地の面積1万364坪と1万3500坪の二種類数値記録されており、後者参道面積を含むものである考えられている。また、元禄3年1690年)の町絵図甲府町年寄坂田家文書)に拠れば甲州街道から参道入口には木戸存在していた。 戦国期には、天正9年1581年武田勝頼定書善光寺大本願栗田文書)に拠れば善光寺町善光寺別当栗田氏支配で、町屋敷諸役免許され近世期の上宿の前身となった上町では門前市が開催されていたことが記されている。天正期の徳川家康羽柴秀勝加藤光泰らの寄進状文禄3年1594年浅野幸長寄進状などがあり、戦国期近世初頭天正から文禄年間には善光寺町一円善光寺所領であった考えられている。 慶長6年1601年)の「善光寺町屋敷帳」(山梨県立博物館所蔵)に拠れば戦国期善光寺町は、本町大規模な短冊形地割屋敷地均質に分布している。屋敷地三門内にも分布し、この点は後述貞享期の町並見られる二極分化起きていないことが指摘される近世後期における善光寺町は、文化3年1808年)『甲州道中分間絵図』に拠れば甲州街道から分岐する参道大門通)に沿って門前町再形成されている。門前町三門の上宿、木戸配置され本宿木戸外にあたる街道沿いの板垣から構成され天正文禄期と異なり三門付近甲州街道沿いに分離した空間構成特徴としている。こうした景観元禄3年町絵図でも同様であり、17世紀後半段階から形成されたものである考えられている。 また、貞享元年1684年)の検地帳甲州万力筋板垣検地」(山梨県立博物館所蔵)に拠れば三門内の供僧屋敷善光寺境内地含まれているのに対し三門外・木内の上町・本町板垣含まれ村方支配となっていたことが確認される文禄期から貞享期にかけて善光寺町分離し屋敷群が三門前と街道沿いに二極分化していたと考えられている。 屋敷地割は全体的に間口狭く奥行きの深い短冊形地割が多いが、屋敷規模甲州街道沿いよりも上宿本宿の方が大きいことが指摘される住民構成に関して上宿本宿屋敷規模大きい年寄層や大工棟梁など有力町人居住するのに対し三門内には屋敷規模小さく善光寺供奉する供僧・平坊主僧が多く居住する対比指摘される江戸後期甲斐国地誌・『甲斐国志』に拠ればこうした門前町空間構成甲州道中整備に伴い参道付近の「本郷」と呼ばれる地域から住民街道沿いに移住したため形成されたという。

※この「善光寺町の形成」の解説は、「甲斐善光寺」の解説の一部です。
「善光寺町の形成」を含む「甲斐善光寺」の記事については、「甲斐善光寺」の概要を参照ください。

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