甲斐善光寺の創建とは? わかりやすく解説

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甲斐善光寺の創建

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:18 UTC 版)

甲斐善光寺」の記事における「甲斐善光寺の創建」の解説

景虎第三次川中島の戦い終結後信濃善光寺大御堂本尊善光寺如来寺宝越後持ち帰り永禄初年頃には直江津新潟県上越市)に如来堂建設した。これにより直江津信濃からの移住者居住し町場として発展している。なお、景虎越後持ち帰った善光寺如来本尊像ではなく本尊像旭山城籠城した栗田氏により避難されていたとも考えられている。 これに対し、晴信は弘治3年2月15日信濃善光寺北西水内郡葛山城長野市)を落とし一帯勢力下に置くと、善光寺別当栗田寛久命じ信濃善光寺本尊阿弥陀如来像寺宝甲斐国甲府移転させ、栗田氏らも甲府転居した。善光寺別当栗田氏武田方と上杉方に分裂している。 晴信は信濃善光寺本尊善光寺如来信濃佐久郡祢津に移すと、三年後の永禄元年甲斐へ持ち帰っている。甲州市塩山向嶽寺の『塩山向嶽庵小年代記』・永禄元年1558年)条に拠れば同年9月15日善光寺如来甲斐到着し甲斐領民狂喜したという。また、王代記』では善光寺如来同年9月25日到着したとし、同年10月3日から板垣郷で普請開始されたことを記している。永禄元年甲斐善光寺創建には信濃善光寺三七住職・鏡空上人本願主になっている同年には栗田永寿板垣郷に移住し大下条甲斐市大下条)に在国領を与えられ永禄8年までに死去している。 甲斐善光寺造営長期渡り善光寺如来は仮堂に収められ永禄8年1565年)に本堂完成し入仏供養が行われたという。その後も、元亀年間に至るまで造営続いた三世住職は西誉空遠(せいよく うおん)で、永禄11年1568年)に朝比奈泰熙の母が寄進した浄土曼荼羅図の補修行っている。

※この「甲斐善光寺の創建」の解説は、「甲斐善光寺」の解説の一部です。
「甲斐善光寺の創建」を含む「甲斐善光寺」の記事については、「甲斐善光寺」の概要を参照ください。

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