甲斐国と博徒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 15:16 UTC 版)
博徒は「侠客」「遊侠の徒」「無宿」とも言われ、御制禁であった博打を生業とする人々を意味する。司馬遷『史記』に拠れば博徒は古代中国の春秋戦国時代から存在したという。日本では平安時代末期から博打打ちの存在が確認され、鎌倉時代には幕府から禁止令が出されている。 江戸時代後期には中部・東海・関東地方を中心に博徒が横行し、駿河国の清水次郎長や上州の国定忠治など全国的に著名な博徒が出現し、親分・子分の系列化により一家を形成した。博徒の存在は法令上は反社会的集団と捉えられ、「盗賊」「悪徒」「賊徒」などの呼称で表記されている。 一方、甲州は甲斐国の別称で、本州中部に位置し周囲を山々で囲まれた山国。江戸時代には甲府城下町を中心に流通経済が発達し、甲州街道や駿州往還、中道往還や若彦路などの主要街道が整備され、特に駿河とは富士川舟運を通じて経済的に結ばれていた。 領主支配は享保9年(1724年)に甲斐一国が幕府直轄領化され、甲府町方は甲府勤番支配、在方は甲府・石和・市川、郡内谷村の代官支配となっている。
※この「甲斐国と博徒」の解説は、「甲州博徒」の解説の一部です。
「甲斐国と博徒」を含む「甲州博徒」の記事については、「甲州博徒」の概要を参照ください。
- 甲斐国と博徒のページへのリンク